異性の誰か、同性の誰か、友、推しの歌手、ペット、
何でもいいのだが、誰かのことを好きになったとき、
じゃあ、どうしてその人を好きだと思ったのですか、
と訊かれたら、みなさんはどう答えるだろうか。
外見が好みだった、笑顔が素敵だから、優しいから、
自分が困っていた時に助けてくれたから、
歌やステージで愛と感動を与えてくれた、などなど、
いろいろ言葉で表現することはできるのだろうが、
じゃあ、年取って外見が変わったら、ケンカしたら、
次困った時に助けてくれなかったら嫌いになるのか、
と言われれば、決してそうではないはずだ。
絶対に言葉では表現できない、好きっ、という感じ、
なんだか嬉しくて、切なくて、キュンキュンする感じ、
胸が締めつけられるような、広がってゆくような、
理屈ではない愛おしさを〝好き〟と表現している。
この理屈ではない感覚、それがハート(神)である。
そしてそれは、美味しいものを食べた時に感じる、
「ああ、シアワセーっ!」という感覚、
大好きな人と愛し合っている時に感じる、
「ああ、気持ちいいーっ!」という法悦感、
大好きな歌手の歌を聴いている時に感じる、
「ああ、癒されるぅーっ!」というホッとする感じ、
と同じものであり、同じハート(愛)からきている。
今この瞬間に見えているそのもの、
聞こえているそのもの、味わっているそのもの、
である愛を、ほとんどの人は、大好きなあの人、
好物のあの食べ物、あの歌手のあの歌、
という代替を通して味わっている。
そして、絶対に言葉で言い表すことができない
普遍の愛の感覚を、間に何のクッションも置かずに
直(じか)に感じていることが、兄弟に信を置く、
今この瞬間の顕れに委ねる、の意味である。
大好きなあの人、好物のあの食べ物、
あの歌手の歌がハート(愛)なのではない。
呼び水は単なる呼び水であり、幻想である。
そして、呼び水は幻想であるが故に、いつかなくなる。
呼び水の事象の中に神を見いだして満足していると、
もし、愛する人が死ねば、神もいなくなり、
もし、好物を食べられなくなれば神も感じられなくなり、
もし、耳が不自由になって歌が聞けなくなったら、
愛も聞こえなくなる、ということになる。
例えば、
長年連れ添ったパートナーや家族やペットを亡くして、
巨大な喪失感にさいなまれ、長年苦しむ人がいる。
しかし、肉体という呼び水は消えても、
その人を強烈に愛おしいと思う人智を超えた感覚は、
今も変わることなくずっと〝ここ〟に在るはずである。
その時自分は、
肉体としてのその人を愛していたのではなく、
愛おしいという不変の〝感じ〟そのものを愛していた、
ことをはっきりと理解する。
なぜなら〝その感じ〟自体が〝神〟なのだから…。