ここへ来て、
心の中の罪悪感をただ見つめてゆくだけだ、とか、
心の中のびゅんびゅんを兄貴に明け渡すのだ、とか、
決断の主体へ戻った場所から赦しをするのだ、
といった、理論的な赦しから、
次々と眼前に立ち顕われてくる、人や物や出来事を、
ただ単純に、文字通りに〝赦して〟ゆくという、
とてもシンプルな赦しに至った今日この頃である。
僕たちは24時間、眠っている時でさえ、何かを考え、
何かを行ない、何かを見たり聴いたりしているわけだが、
その全ての時間に於いて、赦すことを忘れていないこと、
それが聖霊を想い出していることとなる。
赦しに難しい解釈など要らなかった。
兄弟がしているように見えることから感じる動揺を、
それは自分の心の中そのものだった、として赦す。
ただのでっち上げであり、起こっていないが故に赦す。
もうまさに、
赦す、という言葉の意味の通りに、ただ赦せばよかった。
赦しは、本来、言葉では説明できないものであり、
それは、ある種の〝感じ〟あるいは〝感覚〟でもある。
なぜなら、赦そうとした時の、どこか愛おしいような感覚、
赦している最中に感じる、全てを肯定するような感覚、
そして、赦した後の自分が癒されてゆく感覚は、
実践を通して体験し、深まってゆくものだと思うから…。
ただ、皮肉なことに、この単純な赦しに至るまでに、
心の中の罪悪感をただ見つめてゆくだけだ、とか、
心の中のびゅんびゅんを兄貴に明け渡すのだ、とか、
決断の主体へ戻った場所から赦しをするのだ、
という過程を経る必要がある。
そして、
前回の記事で書いたような赦しの後に訪れるのは、
相手を赦せば、自分の心の中が赦され、癒される、
という事実だ。
そこが腑に落ちると、あとは実践をしていくだけである。
これも、それも、あれも赦すのみ。
夢の世界で、良いとされる事も、悪とされる事も、赦す。
というわけで、
明日(日曜)は、香港で大規模なデモが行われる。
もともとは、中国と香港の間で、殺人や詐欺など、
凶悪な犯罪を犯した者が相手国へ逃亡した際、
互いに犯罪者を引き渡しましょう、という、
〝犯罪者引き渡し条例〟の制定を検討していたのだが、
あるとき、そこへ、
〝香港内に滞在する者は、国籍にかかわらず、
中国政府が要請すれば、いつでも中国国内に連行し、
取り調べを受けさせることができる。〟
という一文が加えられた。
この条例が立法局を通過すると、香港にいるだけで、
理由の如何に関わらず、中国政府が連行すると言えば
いつでも連れて行かれることになる。
また、財産も、没収される可能性があるというのだ。
日本で、安倍総理を批判しても逮捕されることはないが、
今後、香港で中国政府を批判すれば投獄される。
その条例に対する抗議デモが、明日、香港で開かれる。
しかし、今の香港は、たとえ選挙に通ったとしても、
中国共産党が認めた人しか議員になれないので、
現職議員はみな共産党の言いなりであり、
今回の条例も、すんなり可決されるとみられる。
国家を赦す。
自分の心が作り上げた、幻想の国家を赦す。
ただ〝赦す〟という文字の通りに赦す。
それだけ…。