前回の記事で、断捨離をしまくっていると書いたが、
だんだん捨てるモノがなくなってくると、
今度は、パソコンやスマホの中を断捨離しはじめた。
わけの分らない仕事関係のファイルや、
電話帳に登録されている見覚えのない連絡先の数々、
そして、二度と見ないであろう大量のメール、など、
もう、次々に削除しまくって行く。
意識が断捨離モードに入ってしまっているので、
必要なものまで捨てている可能性もあるが、
まあ、あまり気にせず、ガンガン手放す。
そんな中、パソコンのDドライブを整理していると、
ハレ師匠から個人授業を受けたときの動画が出てきた。
プロパティを見れば、2013年とある。
うわっ、懐かしー!
講義を見てみる。が、当時のことを全く覚えていない。
食い気味に質問をしまくるボク。自分の声も気持ち悪い。
恥ずかしさのあまり、思わず大声で叫びだしたくなる。
それでも〝ハート〟についての集中講義を見て、
久々にハートに深くアクセスすることができた。
判断しない=感じる=委ねる=悦=エクスタシー=ハート
判断を聖霊に委ねることがハートを感じることであり、
それによって癒しが起こり、真の平安(悦)が獲得される。
何かに集中している時は、ハートを忘れている。
考えに集中させることでハートを忘れさせようとするのが
エゴの策略だ。
ハートを感じるのに、思考は要らない。
神を判断した時点で神ではなくなる。
なぜなら、神は無だからである。
心の中から夢を眺め、
はなから起きていないことを赦すようになってから、
純粋なハートそのものが意識されるようになってきた。
それは、カッカしたり、テンパったりすることで、
自我に歪められ、横領された、
別の感じ方になっているハートではない。
聖霊を想い出しているときに感じる、深い深い平安だ。
とは言っても、僕もまだまだ修行中の身なので、
ずっとハートの中で過ごせているわけではないけれど、
赦せば赦すほど、純粋なハートの力動が大きくなる。
判断せずに感じる。聖霊に委ねたところで感じる。
ワプニック氏の赦しを実践してはいるけれど、
この〝感じる〟という感覚にもっと素直になろうと思った。
なぜなら、赦しの先には必ず、
純牛なハートの歓びが待っているのだから…。
というわけで、引越しを2週間後に控えたいま、
表面的にも、内面的にも、断捨離敢行中のボクである。