⇑ 柿を買い、秋を味わう。甘い。
その表現できない美味さに神の理解を感じる。
僕が最近、突然、神、神、と書きまくるものだから、
ドン引きされた読者の皆様から、
神の想い、神の理解、について質問されることが多い。
中には、神という言葉に、宗教やカルトっぽさを感じて、
無意識のうちに拒絶反応を起こす人もいる。
神は、あまりに多方面で支配の象徴とされるため、
できれば僕も使いたくないのだが、それでもやはり、
〝神〟以外の表現が見当たらないので仕方がない。
〝神の愛〟というと、どこか日常生活から解離した、
キリスト教などの教義上の概念のような印象を受けるが
実際には常にここに在り、誰もが感じているものである。
例えば、ううん…、そうだな、
僕のブログの読者には、専業主婦の方が多いので、
主婦の方を例に、神の理解を説明してみることにする。
主婦というからには、当然、旦那がいるわけなのだが、
これまた当然、かつては(笑)その旦那を好きになり、
多かれ少なかれ、今でも愛しているからこそ、毎日、
旦那に料理を作ったり、旦那のパンツを洗ったりして、
結婚生活を続けていられるのだと思われる。
しかし、結婚して子供も生まれ、何年、何十年、も経つと、
その〝大好き〟という〝想い〟は生活の中へと埋没し、
いつしか、相手のちょっとした言動が許せなくなってくる。
せっかく作った料理にマヨネーズをかけた、
わたしはキャリアを捨てて専業主婦になったのに、
主婦のわたしを小馬鹿にするような一言を吐いた、
こっちは体調が悪いのに、いたわる素振りもない、
といった些細なことにムッカーッ、とくる。
⇓僕がどんなに専業主婦に憧れているかを綴った記事⇓
だが、現実の出来事に意識の表面は波立ちながらも、
根底には〝あなたが大好き〟という想いが流れており、
それ故に、ムカつきながらも旦那のパンツが洗えている。
ただし、その根底に流れている〝大好き〟な想いは、
情緒的な感覚であるため、言葉では表現しづらく、
分析して報告しろ、と言われても絶対に不可能だ。
そして、毎日色々な事があって忘れがちだけれども、
確かに根底に流れている相手への想い、
愛しているという感覚こそが、
神の想いであり、ハートの感覚である。
たとえ日常生活で、旦那にムッカーッ、となったとしても、
それでも底辺に流れている旦那に対する〝愛の感覚〟
を思い出し、そこへと立ち返ること、
これが、神を想い出す、ということになる。
僕たちは神から分離している、と思い込んでいるので、
神が大好き、とは、とてもとても恐ろしくて言えないが、
旦那になら、いろいろ不満はあるけれど、まあ好き、
くらいは思える。
でも、日常では裏に隠れているけれども
それでもあなたが好き、という感覚こそが、
神を愛している感覚であり、
また、神が自分を愛している感覚である。
と、ここまで来ると、もうお分かりかと思うが、
なんのことはない、本当は、旦那が神だったのである。
そのことを認めて、ムッカーが来るごとに、
その根底を流れる神の想い(大好き)へと立ち戻ること、
旦那の中に神を観ること、それが〝赦し〟である。
このように、論文に書いて証明はできないけれど、
確かに感じている旦那に対する愛は、
神に対する愛だった、と自覚されると、
今度は、その〝ハートの感覚〟が、
あらゆる兄弟たちに波及し始める。
例えば、何かにつけマウンティングしてくるママ友や、
ウザいお姑さんや、反抗期の子供、などが仕掛けてくる
きいぃーっ、となるような状況に遭遇した際、
普段は忘れているが、根底に流れている旦那に対する
あの〝好き〟な感覚が神の感覚であったと思いだし、
その感覚をあらゆる場面に適用し、
当て嵌めてゆくことで、あらゆることを赦せるようになる。
と、ここまで来て、なんで主婦でもない男のお前が、
主婦目線でこんなことを語っているのか、と、
お叱りを受けそうであるが、
パートナーはそういう意味でとても力強い愛の象徴だ、
ということで…、おやすみなさい。