以前の記事で、自分責めをやめよう、
みたいなことを何度も力説していたが、
自分を責めるその根底にあるのは否定である。
もっと言えば、自分に対する否定、
自分から出た本音の思いに対する否定である。
本当はものすごく怒りたい。
➔そんなことしちゃダメ、それはエゴだから…。
本当はものすごく言い返したい。
➔そんなことは起こってない、世界は無い。
本当はこの人のことが大嫌い、死ねばいいのに。
➔そんなこと思ってはいけない、愛だから…。
本当は、本当は、本当は…。
そうやって、
自分によって抑圧され、行き場を失った思いが、
相手の言動となって眼前に投影されてくる。
他人を使って、自分が自分に文句を言っている。
ひどい時には、否定された思いが内へ向かい、
自分の肉体に病気となって顕われたりする。
自分の本音を抑圧し、否定すると、
他者や自分の肉体までをも悪者にし、
嫌な役をさせることになる。
ああ、そうか、この嫌な出来事や病気は、
表現を許されなかった自分の思いが、助けてぇ、
と、他者や肉体を通じて叫んでいる結果なんだ。
本当はものすごく怒りたい。
本当はものすごく言い返したい。
本当はこの人のことが大嫌い、死ねばいいのに。
これって、本音の自分が、
それを無視し続けるもう一人の自分に放った、
愛を求める叫びだったのだ。
このことに気づいてから、僕は劇的に変わった。
存在の在り方が変わり、どんなネガティブなことも
愛の表現の顕れとして、自分に優しく寄り添い、
受け入れられるようになった。
自分の本音を否定せずに受け入れ、赦してゆく。
赦すのは、自分を無いものとして否定している
自分自身であり、他者や出来事ではない。
隣人を愛す前に自分である。
自分の中のどんな思いも愛から来ているので、
抵抗せず、全部受け入れて、優しく寄り添う。
なので僕は、
〝手放す〟より〝受け入れる〟である。
昔、アンフィニをやっていた時に思っていた。
エゴの思いを統合して、手放しても、手放しても、
ボーリング場のボーリングの玉のように、
打ったそばから手元にボールが戻ってくる。
その当時は、次のが出てきているんですよ、
と言われて納得していたが、今なら解かる。
神の思い(愛そのものである自分自身の思い)を
手放すことなど不可能なのだ、と…。