👆 家の近所のカフェで映画の撮影
これで、何度目か(?)の爆弾発言となる。
〝神は在る〟以前に〝私は在る〟である。
ただし、ここで言う〝私〟とは、
脳によって機能している肉体としての私ではなく、
背後側、無限の全体に在る私のことを指す。
僕が何年も実践をしてきて明言できるのは、
自分(私)を他者に明け渡した状態で、
他者の目を気にして怯えている状態で、
神は在る、を真に〝智る〟ことはできない。
赦しを実践し、聖霊に委ねることで、
少しづつ神は在るに近づいてゆくのでもない。
そもそも他者を恐れている時点で神を恐れおり、
自分を責めている時点で、
自分はまだ、赦しや聖霊まで行っていない。
なので一気に〝神〟ではなく、
先ずは自分へ戻るところから、
一歩一歩やっていこうと決心をすることだ。
多くのコース兄弟は、
幻想である〝私〟を存在させることに
大きな抵抗を抱いてしまいがちだが、
本当は私だと思って嫌っていたものが神だった、
私を嫌っているように見えて、
本当は神を嫌っていることに気づけていない。
私は無い、私は幻想だ、とやればやるほど、
神は無い、神は幻想だ、とやっている。
私は幻想で、在るのは父だった。
従って、何はともあれ、
私が在る、に気づくことで、
在るのは私ではなく神だった、と気づき、
罪悪感も本当は神の想いの裏返しだったと知る。
そうやって、
神しか実存しなかったことが理解できて初めて、
世界も個の自分も幻想だったと体感できる。
よって、全ての出発点は〝私〟からである。
私は在る、というのは、
今、この瞬間に在る神に気づき、
背後の無限の全体に開いて、
私側に愛と力が戻っている状態のことを指す。
私に優しく寄り添い、私に気づいている状態…。
そして、在る瞬間に、
「あれ?俺って、ひょっとして、神じゃね?」
となる。
だから、
たとえ、人をけなしても自分をけなすな!
たとえ、人を責めても自分を責めるな!
たとえ、人を否定しても自分を否定するな!
なにぃー?できないーっ?
だめだ、だめだあーっ!そんなことで、
父が待つ故郷へ還れると思っているのかぁーっ!
『アタックNo.1』の鮎原こずえで行くのだ!
『エースをねらえ!』の岡ひろみを見習うのだ!
日本男児、大和なでしこ、
何が何でも、根性で終わらせるのだ!
👇 更新したよ!shusaku1.hatenadiary.jp