👆 習慣化している、仕事で外出したついでのQB
この日も両サイドだけカットしてもらう
今際の際(いまわのきわ)について考えている。
というのも、昨日の午後、妹からLINEで、
うちの85歳になる父が、コロナのワクチンを接種
した帰りに、脳出血で倒れ、これから緊急手術だ、
というメッセージを受け取った。
慌てて妹に電話をかけると、
左脳一面に出血が広がっており、手術の後、
これから一晩かけて頭から血を抜くのだという。
ワクチンの副作用も疑われたけれど、先生曰く、
ワクチンを打ってすぐに出血することはなく、
たぶん、一か月ほど前にどこかで頭を打ち、
そこから少しづつ出血し続けていたのだろう、
ということだった。いまは、手術も済み、
ICUで血を抜いている最中だが、コロナ対策で、
親族でも病院の中には入れてもらえず、
面会もできないということだった。
いま、大阪府は病院もぎりぎりで稼働しており、
救急車が来た時も、あちこち電話をしても、
なかなか受け入れてもらえる病院がなく、
最後に父の主治医の病院に連絡をし、
無理を言ってやっと受け入れて貰えたのだという。
僕は外国にいるので、父にもしもの事があっても
たぶん、死に目には会えないだろう。
まあ、彼の85歳という年齢もあり、
「仕方がない」と諦める覚悟もできている。
だが、父の側の立場に立った場合、
「最後に周作の顔を一目見てから逝きたかったな」
と、ひょっとしたら死の間際に思うかもしれない。
そして、そんな〝想い〟を、
たとえチラッとでも抱かせたまま逝かせるのは、
息子としてどうなんだろう、と考えてしまうのだ。
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そういう意味で、臨終というのは、
旅立つ本人が、生前の想いを手放すために、
残った者が最後の最後に用意してあげられる、
大切なイベントなのかもしれない。
なので、生前本人が愛した人だけではなく、
憎んだ人、赦せなかった人、気にかかっている人
も、共に立ち合い、看取るべきなのではないか、
と思ったりする。
そして僕の今際の際が、
〝有難う、大好き〟だけだったらいいな、と思う。
というわけで、
いろいろ考えさせられた土曜の午後であった。