以前、アッパーハウスの49階で食べた
イタリアンのランチがとてもおいしかったので、
今回はアフタヌーンティーをしに行ってきた。
また今回も、公務員を退職したあの、
退職金6千万円の、悠々自適な友人を誘った。
今回は〝お茶〟を楽しむ時間帯だったので、
ワインは飲まなかった。
前回同様、
店内は穏やかで優しい空気に満ちていた。
まあ、こんなことを言ってはナンなのだが、
あるグレード以上の店には、経済的に余裕があり
心にもゆとりのある人々が多く集まるので、
そういう穏やかな人たちが放つ、
おおらかなフォトンが、
店全体の雰囲気を平和なものにしていた。
いま、この瞬間に溢れている平安の光と、
豊かさの気配を思う存分味わった。
それによって何かを得ようとするのでもなく、
ただ、その心地よさに身を委ねて感じるのだ。
僕にとっては、こういうアッパーな人が集まる
レストランでお茶をするという行為そのものよりも
〝愛の感じ〟を感じるためにそこでお茶をする。
話は変わって、
前回、人々が表面的に発する言葉を信じない
と書いたが、今では更に症状が進み、
これらは全部エゴが見せる妄映であり、
本当はそこには誰もおらず、何もしていない、
ということが、概念や観念ではなく、
ましてや言い聞かせでもなく、
もうマジで、ありありと〝体感〟されてきている。
いや、もちろん、仕事中なんかに、なんだこいつ、
となる瞬間はあるけれど 「ああ、これ、ウソだわ」
と即行で理解が起き、そのウソをウソとして、
きちんと認識することができている。
ああ、これが〝エゴを見過ごす〟ことなんだな、
と、ようやく腑に落ちて理解している。
別の例を挙げると、僕の父は認知症である。
だから、LINEビデオで映像越しに話をしても、
彼が発する言葉はちんぷんかんぷんで、
ほとんど意思の疎通ができない。
それでも、その父の背後を流れる、
不変の愛の本質を感じていると、
何も問題がないように思えてくる。
要するに、見えている父は全部ウソなのだ。
じゃあ、ウソではない言葉、真実の言葉、とは、
どんな時に発せられるのか、と考えてみた時、
それは、やりたい事と、実際にやっている事が、
完全に一致している時に発せられる言葉こそが
真実の言葉なのではないだろうか、と思った。