この幻想の世界は苦しみしかない、
こんな地獄のような世界はうんざりなんだ、
存在もしない不安と恐怖の妄映など必要ない、
だ、か、ら…、
私は父が待つ故郷へ永遠に帰還したい、
というパターンでは、永遠に帰還できない、
という話である。
断言できる。絶対に無理である。
なぜなら、苦しい、うんざり、不安、怖い、
と言いながら何かを赦せるわけなどないし、
神と対極の境地にいて、神に戻るなんて、
絶対にあり得ないからだ。
こんなことを書くと、
ワプニック派からは総スカンを食らいそうだが、
真剣に、神妙に、深刻に自我と向き合うあまり、
笑顔がなくなった赦しはやはり苦しく、しんどい。
そして、苦しさは天国と離れていると思うのだ。
特にヘタレな僕は、どよよーん、過ぎて無理!
この幻想の世界は、
自分の心の中を象徴しているので、
自己の内側に神や愛が充満していれば、
夢の現実も愛と平安で輝いているはずだ。
なのに、外の世界が、しんどい、うんざり、不安だ
だ、か、ら、手放したい、となっているのは、
まぎれもなく、自我が先手に来ている。
なので、外側の世界で、笑顔が増えたなら、
神を感じられている、赦せていると確信していい。
例えば、自分は今、自宅にいるとする。、
玄関に鍵はかかっておらず、窓も開いている。
なのに、ここは不安だ、家の中はうんざりだ、
私はここから出て天国を望みますとやっている。
いやいやいやいや、よっこらしょと立ち上がり、
玄関から外へ出ていけばいいだけの話である。
心だけで赦し、実際的な行動を起こさない人は
(立ち上がって玄関から出ていかない人は)
これと同じことをやっている。
起こっている波乱万丈な現実、
眼前に見えているちょっと苦手な兄弟、を、
「これは真実ではない」で片付けないでほしい。
すべて、意味があって出てきているのだ。
込み上げる、悲しみ、怒り、不安、恐怖 を、
「これは自我だ」でスルーしないでほしい。
それらはみんな愛を求める叫びだ。
神の視点から見れば、
悲しみも、怒りも、不安も、恐怖も、
みんな、完璧な愛であり、美しい。