自分の本質は無限の全体そのものだった、と、
真に体感してからの最も大きな変化と言えば、
他者を恐れなくなった、ということだろうか。
神から無条件に愛されていて、
ただ存在しているだけで愛されるに値する、
と智っている神の子である自分が、
分離した肉体だけで生きている者より、
弱いわけがない、と悟ったのだ。
これは、決して傲慢な気持ちから言うのではなく、
また、分離している方に力がないのでもなく、
どちらも自分で選んでいるだけのことである。
というのも、あるとき、神とひとつになり、
神を感じて歓びに溢れているにもかかわらず、
それでもまだ、
相手の顔色を覗ったり、人の目を気にしたり、
自分でない自分を演じている自分に気づき、
これはおかしい、と思ったのだ。
僕は長年、企業組織の中にいたので、
(まだ、あと2日いる)
相手側が主体となって動く行動パターンが
骨の髄まで身に染みている。
少々嫌なことがあっても合わせられるし、
おかしいと思っても、すぐにスルーできる。
企業では、一緒に仕事をする人を選べないし、
また、意味のない仕事も多い。
会議に合わせて資料を作ったとしても、
発表を終えれば、その資料は用済みとなり、
顧みられないものがほとんどだ。
そういった、
これまで何の違和感もなくやれていた行為が、
もうきつくてできなくなりつつある。
むかし、アンフィニのあやこさんが言っていた、
まるで、赤ちゃんの靴の中に入っていくような
窮屈さと不快感を感じてしまうのだ。
とは言っても、
企業という〝居場所〟を選んだのは自分であり
故に、選び変えられるのも自分である。
もう、これからの僕は、心から幸せだなあ、
と思える兄弟たちのみと共にあり、
常に心からリラックスできる場所にいる
ことを選択してゆく。
神を感じていればどこにいても一緒ではないか
という人もいるが、どこにいても一緒なのなら、
自分が心底心地よいと思える場所に
身を置く方が賢明である。