自分が、
無限の自己そのものであることを体感していて、
兄貴といつも一緒にいるからといって、
〝赦し〟をしなくてもよくなる、わけではない。
もちろん、日常遭遇するさまざまな出来事の中で
罪悪感や欠乏感や無価値観は上がってくる。
しかし、以前やっていた赦しと決定的に違う点は
もう既に〝赦されているもの〟として、
それらの否定的な思いを捉えていることである。
この感覚を言葉にするのはとても難しいのだが、
「これは赦されるために出てきているのだ」とか、
「これも本当は愛だったんだあ」というふうな、
解釈(考え方)、の方へ行くのではなく、
何か自分が不快な思いをして(又は人にさせて)
怒りや罪悪感を感じて動揺はしているのだけれど
でもなんか、気分はわるくない、みたいな…。
「なにそれ、ウケるー」みたいな…(ギャルかっ!)
そこに全く〝深刻さ〟を感じておらず、
なんていうか、頭で赦そうとしていないのだ。
別の角度から説明すれば、
罪悪感を感じていると思っているけれど、
本当にこれって罪悪感なのだろうか、
自分は傷ついたと思っているけれど、
果たして本当にそうなのだろうか、と、
自分が感じていることにツッコミを入れて、
ウケるー、とやっている感じ。
(👆 だから、おまえはギャルかっ!)
👆 ザ・ペニンシュラ!
アフタヌーンティーに再び日本人観光客の
行列ができる日はやってくるのだろうか!
長年の実践で解かったのは、
感じてから赦すことはできない、ということだ。
ああ、やってしまった…、という罪悪感、
私なんてどうせ、私なんかが、という無価値感、
どうしようどうしよう、という恐怖感や不安感、
要するに、
これら罪悪感や無価値感や恐怖感や不安感を、
額面通りに受け取り、感じてしまっている時点で
すでに赦すことなんかできないのだ。
ワプニック氏が、
罪悪感を笑い飛ばす、と言ったり
ゲイリーが、世界はジョークだ、と述べたりすると
真面目なコース兄弟たちは、静かに目を閉じ、
神妙な表情で罪悪感を笑い飛ばそうとしたり、
世界はジョークだ、と唱えてみたりする。
深刻に笑い飛ばそうとしてしまうのだ。(笑)
それってもう、別の意味でジョークである。
もうマジウケるぅーっ、とギャルのノリでいい。
なんでやねん、と吉本のお笑い芸人でいいのだ。
それが〝すでに赦されているもの〟として
自我を赦すための極意である!(👈 何様?)