先週土曜日、父の一周忌が済んだので、納骨をしに、
菩提寺である高野山の普賢院を訪れた。
前回の社葬の時は、難波から電車に乗って行ったが、
今回は、京都からバスで高野山へ向かった。
トイレ休憩も含め、片道三時間の旅だったのだが、
乗り継ぎがないので、寝てたら着いたという感じだ。
このお寺に来るのは何年ぶりだろう?
ここには先祖代々の骨と位牌が収められており、
前回来たのは確か、まだ5歳くらいの時だったと思う。
それでも、通された座敷や庭には見覚えがあり、
なんだかすごく懐かしい感じがした。
父のお骨と永代供養用の位牌を本堂に供え、
4人のお坊さんによる読経が始まった。
それから、お坊さんの言う通りに、焼香をしたり、
線香をあげたり、お辞儀をしたり、と色々やった。
最後に、掛け軸やら数珠やらをもらった後、
ペラペラの薄い塔婆を数枚渡され、これを、
奥の院の水向地蔵へ納めて来て下さいと言われた。
〝げっ!奥の院までぇーっ?うわっ、しんどーっ!〟
声には出さなかったが、顔には出てたと思う。
(※これだから近頃の日本人は…by 弘法大師)
僕は、供養をしてもらわないと成仏できない、
なんてあり得ないと思っていて、もしそうなのなら、
金持ちしか天国へ行けないことになってしまう。
なので、将来母を納骨したら、その後はもう、
いかなる供養もしない、と妹には話している。
といっても、僕が最後の末裔となるのだが…。(爆)
普賢院を後にし母と妹と三人で精進料理の店に入った。
すると、店員さんがテーブルにお茶を4つ置いてゆき、
注文を取りに来た時 「あれ?三人様でしたっけ?」
と言いながら、お茶のコップを一つ下げて行った。
そういえば、今朝も僕が大阪から京都へ向かう電車で
ほぼ満員なのに、僕の隣の席にだけ誰も座らなかった。
席が汚れている訳でも僕に問題がある訳でもないのに
まるでその席に誰かが座っているかのように、
みんなその空席の前で立ったままスマホを見ている。
それで、精進料理の店を出た後、母と妹と三人、
バス停で奥の院の入り口まで行くバスを待っていると、
ちょうどタクシーがやって来たので乗ることにした。
後部座席に三人座ろうとすると、
「後部は三人しか座れませんので、男性の方(ボク)は
前の助手席にお座りください」と言われた。
ええっ!これって、絶対父がついて来てるんじゃん!
で、運転手さんに、水向地蔵に塔婆を置きに行く、
と告げたら、じゃあ、職員専用の裏道を通って、
水向地蔵のある所まで直接行きましょう、と言われた。
本当は許可のある専用車両しか通れないのだが、
特別に行ってくれるという。
うわっ、助かったー!これで歩かなくて済むーっ!
さすが奥の院は聖域中の聖域と言われるだけあって、
どんなに鈍感な人でも判るほど空気が全く違っていた。
どんな邪気をも浄化させる強力な清涼さに満ちている。
本当に遠くて、今後何度も行ける場所ではないので、
今回、訪れることができて本当によかった。
おとうちゃん、ありがとう!
以前、ナショナルジオグラフィックで、
人間の魂を量子論で説明している番組を見たのだが、
人は死んでも、その素粒子はフォトンとなって、
宇宙に飛び散り、永遠に存在し続けるのだという。
また、その素粒子が、新たな肉体を形成することを、
我々は、転生した、と呼んだりする。
そして、人々が故人を偲んだり、供養することで、
シュレーティンガーの猫のようなことが起こり、
宇宙上にバラバラに浮遊していた
その故人のフォトンが、さっ、と、一瞬で集まり、
具現化されてくるらしい。
なので、精進料理の店でお茶が四つ来たのも、
僕の隣の席がずっと空席に(見えて)いたのも、
僕たち親族が父に意識を向けたことによって、
宇宙に散った父の素粒子がぱっと集まったのだろう。
というわけで、何とも感慨深い一日であった。