生物的な意味で〝自分〟とは何かと問われると、
- 目⇒視覚=見えているもの
- 耳⇒聴覚=聞こえているもの
- 肌⇒触覚=感じているもの
- 舌⇒味覚=味わっているもの
- 鼻⇒嗅覚=匂っているもの
- 脳(意識)⇒知覚=認識されているもの
上記の6つの機能の総合的活動だ、と言えるだろう。
肉体は幻想だ、世界は無いと言ったって、
耳や口が無ければその言葉すら発することができない。
なので、世界は無い、私はない、と解かるより以前に、
先に、目で見えるものがあり、耳で聞こえるものがある。
目は、見えているモノを、見えているまま伝え、
耳は、聞こえている音を聞こえている通りに伝えている。
意識も、目や耳と同様に、
「あ、山田さんだ」 とか 「あ、救急車が通った」 と、
認識した通り、知覚したままを伝えている。
従って、自分などない、世界は夢で幻想だ、
と解釈する前の、5感に飛び込んでくる光の奥に、
神の想いがあり、兄貴を認識できる領域がある。
(※ 領域という言葉さえも適切ではないのだが…)
僕の場合は、自分とは別に兄貴という存在がいて、
その兄貴の導きに自分が従う、という感じではなく、
すでに兄貴は僕の中で同一化されて息づいており、
今の自分に見えているもの、聞こえているもの、
それイコールで兄貴のガイダンスとなっている。
例えば、6感、即、兄貴で任せきって動いている時、
こっちに行った方がいい、とか、これを買った方がいい
とか、この人にこれを伝えた方がいい、というような、
直感やメッセージが兄貴からやってくるのではなく、
もう行ってしまっていて、買ってしまっていて、
伝えてしまっていることに対して何の抵抗も無い。
そんなことをしたら約束の時間に間に合わない、
この人にこんなことを言ったら大変なことになる、
赤い服を着たいけどやっぱり無難な黒にしようか、
ああ、聖霊、どうしたらいいか教えてください、
という思いが湧いてくる以前に、
間に合わなくてもいいからこれをしたい、
本当はこういうことを言いたい、赤い服を着たい、
といった本音の想いが立ち上がっているはずであり、
その〝本当はこうしたい〟想いに任せていることが
兄貴のガイダンスに従うことの意味となっている。