体験が全てである、と前回の記事で書いた。
神は在る、罪などなかった、聖霊がいるから大丈夫、
聖霊に任せるだけ、私はすでに救われています、
といった言葉を唱えることではなく、
その言葉を体験することが、〝神の体験〟であると…。
それは、
スマホを見たことも、スマホに触れたこともないのに、
スマホは在る、スマホがあるから大丈夫、
スマホに任せるだけ、私はスマホに救われている、
と言っているのと全く同じである。
スマホの使い方や機能を熟知しているにもかかわらず
肝心のスマホを体験したことがない。(爆)(爆)
女の事は何でも知っているけど童貞、みたいな(失礼)。
神を体験する前に、まず、自分を体験することである。
自分を感じること、と、神の子を感じること、
は同じであり、それが神の体験につながる。
「ほらほら、もっとちゃんとやれよ!」
「おまえ今、ムカついただろ!ダメだなあ!嫌なヤツ!」
「お前には無理、無理!うまくいくわけねーだろ!」
こいつムカつく、死ねばいいのに、バカヤロー、
と叫ぶ自分に対して、そんなことを考えるなよ、と、
本音の自分にモラハラしまくりながら、
私はあの兄弟を愛で見たい、聖霊助けてください、
この間違った思いを訂正して下さい、とやっている。
自分がそれを止めない限り、訂正されるわけがない。
もし自分の子供が、ひどい暴力を振るわれていても、
私には何もわかりません、聖霊助けてください、
と言って何もせずに放っておくのか、という話である。
それと同じことを自分にやっていないか、見てみる。
すると、大概の人は、そんなことしてませーん、
と答えると思うが、大抵の人はそんなことをしている。
👇 自分責めやめましたシリーズ!
いくつか前の記事で、自分パワハラを止めるには、
今日は髪型がきれいに決まったね、というような、
ほんの些細な事でもいいから、自分を褒めまくれ、
と書いたが、それは、子供を虐待していた親が、
子供を褒める実践をすることで、虐待を止め、
子供の心を癒してゆくのと同じプロセスだと言える。
どんなにひどい思いを持っても、そこに至るには、
それなりの理由がある筈であり、
その声をきちんと聴いてやることが赦しである。
僕の場合は、昼間はワチャワチャしているので、
夜、ひとりで瞑想しながらそれをやっていた。
自分には聖霊がついているから大丈夫、
という真の智覚が生まれるのはその後の話である。
奇跡講座の形而上学だけをいくら学んでも、
(スマホの扱い方だけをいくら学んでも)
実際に触ってみなければ体験は起きない。
というわけで、今日は熱く語ってしまった。
支離滅裂な文章ですんません!