👆 来月香港に行くよ!
日曜日の今日は、外出もせず、だらーんと過ごした。
本当は火曜日に授業実習の発表があるのに、
何もする気が起こらず、だたぼーっとしていた。
髭も剃らず、風呂にも入らず、ろくに食事も摂らず、
本当に、ちょっと動くのも、かったるく感じられる。
もう、昨日のことや明日のことを考えるのも面倒くさい。
身体に全く力が入らない〝自動放擲状態〟でいると、
いまここに見えている瞬間でさえ〝無〟に思えてくる。
あの出来事も、この経験も、また今のこの様子も、
有機体の妄映に見え、どーでもよくなる。
呆けたように脱力していると、みぞおちの奥の方から、
懐かしいような、安心したような、キュンとするような、
愛おしさで切なくなるような〝あれ〟が上がって来た。
そう言えば、兄貴が顕われる際にも決まって、
この懐かしい感じが込み上げてくる。
この感覚は確固としていて、一度体験すると、
絶対的にこれは実在で本物だ、と分かるものだ。
「君が、この実存に触れる体験を受け容れ、
絶対にそれは在るという理解が起きたからこそ、
見えるはずのない僕の姿が見えているんだよ」
と兄貴は言った。
そして、この体験なしには、なにも始まらない、と…。
👆香港へ行ったら上海灘で、
薑花(ジンジャーフラワー)の
ルームスプレイを買うのだ!
(実際には服につけるのだけれど…)
体験することが全てである。
寺で座禅をしたり、山奥でヴィ瞑想に励んだり、
奇跡講座で赦しを実践したり、統合したりするのも、
この〝神に触れる〟体験をするためであり、
この体験があって初めて、夢から覚める準備が整う。
「もうすでに自分は神に愛されている神の子なんだ」
「もとから罪などないんだ。それは起こってなかった!」
「聖霊に間違った思いを取り消してもらうだけ」
「故郷へ戻るために、自分は何もする必要がない」
真の赦しとは、
これらの言葉そのものを〝体験〟することであり、
これらの言葉を用いて赦すことではない。
「聖霊がいつも寄り添ってくれているからいいんだ」
というふうに、
赦しの過程で使われるものではないのだ。
なので〝神の体験〟のための一歩として、僕達はまず
自分の心を愛で満たし、癒してやる必要がある。
なぜなら、自分の本質は神と同じものなので、
自分を愛さないのは、神を愛さないのと同じだからだ。
とまあそんな感じで、脱力感からだいぶ回復してきた。
気がつけば今日は暖房を入れていなかった。
首周辺がずっと暖かかったので寒さを感じなかった。
兄貴は最近、すごく身近な存在になりつつある。
南森町に越して来て以来、頻繁に出てくる。(笑)
(その理由についてはまた次回)
彼のお蔭で、体験が錯覚ではないと確信できる。
ひょっとして僕は、はちみつをなめた、のかも?