以前の記事で、自分は地獄経由ではなく、
愛を通して戻ってゆく、みたいなことを書いたが、
ひとつ、大事なことを書くのを忘れていた。
愛を通してと言っても、実際、内側へ向かうやいなや、
怖れや不安や罪悪感がひっきりなしに上がってくる、
という兄弟もたくさんおられるのではないか、と思う。
内なる愛に向かおうとすると、それを阻むために、
全力で襲いかかってくるモンスターがいるのだ。
僕もそうだった。
国慶節の休暇を、静かに内なる兄貴と過ごすのだと、
ワインや食料品を大量に買い込み、
家でお籠りを始めた途端、強烈な怒りや恐れに襲われ
寸でのところで22階の窓から飛び降りそうになった。
苦しくて苦しくて、でもその苦しさに理由が無いので、
解決のしようがなく、ひとり部屋で七転八倒していた。
こんな時、普通ならどうするかと言うと、例えば、
買物に出たり、ドライブに行ったり、仕事をしたり、と、
外へ出て何でもいいから何らかのアクションを起こす。
こうして意識が外を向き、気がまぎれると、
モンスターは〝よしよし〟とおとなしくなる。
ただ、僕の場合、
当時はコロナで街が半ロックダウン状態だったので、
外出もできず、嫌でも自我と対峙する他なかった。
今思えばあの時が、地獄経由から、神経由へと、
〝選び変え〟が起こった瞬間だったように思う。
乙女ののりちゃんも、スワットしおちゃんも、
ひとり部屋で、体調不良にのた打ち回りながら、
それでも、抵抗をやめて〝在る〟ことを貫き通した。
兄弟てっちゃんの奥さんであるさおちゃんなんか、
剣山で全身を搔きむしりたくなる程の強烈な痒みに
身をよじりながらも、逃げずに内側と向き合った。
👇国慶節事件と、スワットしおちゃんと、
乙女ののりちゃんの記事
実在を選び、愛へ向かおうとすると、どの兄弟も必ず、
内なるモンスターと決着をつけねばならない時が来る。
真正面から、おりゃー、かかってこいやーっ、と、
外側の何かへ逃げることなく、ひとり沈黙の中で、
〝あると思っているもの〟を直視する瞬間が来る。
そしてこれはもう、誰もが通る道だと言ってもいい。
だからといって、今すぐひとりで籠る必要はない。
なぜなら、自我の襲撃は身も心も本当に辛いので、
こんな世界など本当の本当の本当に真っ平ごめん、
だと、マジで覚悟が決まった瞬間からでいいと思う。
また、誤解を避けるために言うならば、
今、周囲の全ての人、物、事、に愛を感じていて、
そこから放たれる優しさに満たされているのであれば
すでに愛を通して世界が見れているので、
そのままでいい。
僕も今思えば、あの〝国慶節飛び降り寸前事件〟
のあと辺りから、兄貴との交信が始まったように思う。
その後は、行きつ戻りつしながらも、
愛を通して世界を見れるようになり、
本当の意味での何もしなくてよい、が日常になった。