👆 この日かなり混んでいた
「なんや、このオッサン!」のままでOK
前回の記事からの続きで、どんな感情が出て来ても、
そのまま、何も変えることなく愛だ、というのは、
どういうことなのか。
例えば、
会社員時代、最大の赦しの相手だったコンババ部長も
「コンババ部長ムカつくぅー、頼むから死んでくれ!」
と、僕なんかは毎日思っていたわけなのだが、
よく考えてみると、全ての人から100%完璧に
憎まれている人なんて、そうそういないわけで、
コンババ部長も、部下の僕からは毛嫌いされているが
彼の趣味である登山サークルの仲間からは、
すっごく好かれていて、愛される存在だったりする。
人はその場所、場所、によって人格も変わるので、
その瞬間のその人を見て好きとか苦手とか言っても、
あんまり意味がないように思えるのだ。
別の言い方をすれば、会社にいるその人、
登山サークルにいるその人、家にいるその人、
どれも違う人で、またどれも本当のその人ではない。
要するに、目の前のその人は幻想でありウソなのだ。
だから、相手が殺人者であろうと、聖人であろうと、
同じように〝大好き〟なのではなくて(👈ここ重要!)
殺人者でも、聖人でもないが故に〝大好き〟であり、
同じなのだ。
また、それと同様のことが自分にも言える。
会社にいる時の自分と、家族といる時の自分、
言葉遣い、表情、態度、服装、何もかもが違っている。
もはや別人であるにもかかわらず、
それを同じ一つの自分だと思い込んでおり、
問題はそこにある。
ある場所のある人の前では、とても好かれているが、
別の場所の別の人の前では、嫌われていても、
それで大丈夫であり、そこに罪を感じなくていい。
なぜなら、どちらも自分ではないからだ。
それが分かれば、
自分ではない自分を責めても仕方がない、となり、
自然と、何もしなくなる、というか、何もできなくなる。
もっと言えば、本当の自分などというものも無い。
強いて言えば、
今この瞬間に在るそのもの(実相?神?)でしかない。