👆 「ホンマ、老けたわあ」という思いだけが、
自分無しに湧き出している。
〝自分〟とは何ぞや、と質問されたならば、
〝反応〟と〝思い〟だ、と答えるだろう。
外側で起きたことに反応して、常に何かを思っている、
それが自分だ、と…。
例えば、朝、洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、
「老けたなあ」 「皺が増えたなあ」と反応し、
「昔はもっと、しゅっ、としてたのに…」と思う。
その一連の〝反応の仕方〟を自分だと思っている。
つまり、何かを見たり、聞いたり、したことに対して、
独自の見解を持った主体を自分だ、と錯覚している。
しかし、
本当にその思いは、自分が思ったものなのだろうか。
主体となる私がどこかにいて、その私が、
「老けたなあ」 「皺が多くなったなあ」と思おう、
と決めて、そういう考えが出てきたのだろうか。
その思いの根源を、ようく、ようく、見てゆくと、
どこからともなく、そういう考えが、ふっと湧き上がり、
それを捉えて、自分がそう思った、と勘違いしている。
逆に言えば、
「昔はもっとカッコよかったのに」という考えが、
どこからともなく、ふっと湧き上がってこない限り、
それを思うことができないのだ。
もっと言えば、何を思うかを自分で決めていない。
もっともっと言えば、何かを思えたり、決められる、
自分という主体がどこにもない。
なんであの時、恋人と別れてしまったんだろう、
なんであの時、会社を辞めてしまったのだろう、
または、あの時家を買っておいて本当によかった、と、
自分の決断に後悔したり、安心したりするが、
これ全部、ふっと湧き上がってきた思いによって、
取られた(取らされた)行動でしかなく、
そこには、何かを判断した自分というものがない。
後悔や安心ですら、その想いが湧いてこない限り、
後悔することも、安心することもできない。
要するに、無作為に湧いてくる思いがあるだけで、
何かを決めた自分という実体など、
どこにもないのだ。
何が言いたいのかと言うと、
僕達は、自分で考え、自分で決めた人生を歩んでいる、
と思っているが、そうではない、ということである。
ふっと湧き出た思いによる人生を歩んでいる。
そういう意味で、何もコントロールできない、
というか、コントロールできる自分自体がいない。
スーパーで、30%引きだからこの総菜を買おう、
という思いが〝勝手に〟出てこない限り、
絶対にそれを買えない仕組みになっているのだ。
ちょっと前、NHKで《VRおじさんの初恋》
というドラマをやってたが、
ほんとうに、VRの中にいるみたいに思える。
ていうか、VRの中そのものではないか。
どこかで作られた思いによって動かされている。
抵抗をやめ、今ここに在る神に委ね切ったとき、
罪を犯した自分なんて無いことがわかる。
そこから、VR世界からの脱出がはじまる。