〝今この瞬間を取り上げ、
それを、存在する時間の全てだと考えなさい〟
《奇跡講座テキスト:第15章 聖なる瞬間より~》
これは、僕が大好きな言葉のひとつである。
これまでの苦節10年(笑)、
「いまーっ、この瞬間にぃーっ、在るうぅーっ!」
「抵抗をやめてーっ、いまを、う・け・い・れ・るぅーっ!」
と、歯を食いしばり、根性と気合でやってきたのだが、
ここへきてようやく、
今この瞬間だけが全てになって生活できている。
どういうことかというと、
今この瞬間だけを全てにする、というのは、
今に生きるとか、今起こっている事を受け入れるとか、
今この瞬間に在るとか、今に全てを委ねるとか、
瞬間瞬間、聖霊兄貴に訊いて、そのガイダンスに従う、
というようなことではない、とういうことである。
これらは全て、今この瞬間を〝解釈〟している。
そうではなく、解釈以前にあるものを直に観る、
もっと言えば、神にじかに触れる、
もっともっと言えば、実相そのものが全てになる、
それが〝理解〟であり〝智識〟である。
例えば、ぱっと横を向いてスマホが目に入った時、
これなんだろう⇒スマホだ⇒俺のスマホだ⇒
着信が入っている⇒あ、田中部長だ⇒うわ、嫌ぁーっ
という解釈が、自動的に起こっている。
あっ、スマホだ、と気づいた瞬間、僕たちは、
神の想念をスマホの中に幽閉してしまったのだ。
しかし、あ、スマホだ、と解釈する前に見えた、
これなんだろう、すらない、一瞬の0.00001秒、
ぱっと目に入ったまんまの姿、があるはずである。
そして、その0.00001秒(数字はテキトー)の一瞬を、
わたしに差し出しなさい、と兄貴 は言っている。
そうすることで、
知覚(見えるもの/聞こえるもの)を、智識(実相/ハート)
に取り換えることが可能になるのだ、と…。
兄貴はべつに、
解釈する前の姿で24時間いろ、とは言っていない。
思考も解釈も抜け落ちた0.00001秒があれば十分だ
と言っている。(奇跡講座:時間の二つの用途を参照)
そのために、多くの人たちが、禅の修行をしたり、
ヴィパッサナー瞑想をしたり、している。
じゃあ、今この瞬間が全てになっているとは、
どんな感じなのかというと、別にフツーだと思う。
フツーだからこそ、それですでに大丈夫なのだ。
どんな思いが出て来ても、
その思いを捉える自分がいないので、問題ではない。
その大丈夫に落ち着くとハートの悦びが上がってくる。
というわけで、来週は奇跡講座ネタ一色で行くぜ!