(6月4日の下書きより~)
聖霊兄貴に、
明け渡したり、委ねたりする前段階として、
〝受け入れる〟があることに最近気づいた。
そして、受け入れるとは、力を抜いて、
あらゆる抵抗をやめることだ、ということにも…。
そんなこと言っても、自分はもう50歳だし…。
(若かったらやるんだけどね…)
そんなこと言っても、自分は子供いるし…。
(子供がいなければ行くんだけど…)
あの時やっとけばよかった…。
(母親に反対されたからねえ…)
ちゃんとやれなかったらどうしよう…。
(もっと早くから準備しておけばよかった…)
しかし、そうすると選択したのは自分だ。
母親や子供のせいにするのは、
母親や子供に失礼というものだ。
起こることを母親や子供や状況のせいにして、
抵抗している自分に気づき、
どんな言い訳も、どんな後悔も、どんな不安も、
自分の想いの全てを力強く認め、受け入れる。
この行為があって初めて、
聖霊兄貴に、間違った思いの修正を依頼できる。
今に在り、自分に気づき、神に開いて、
ただただじっとしている。
それは何の行動も起こさないことではない。
もし、自分が誰かに何かを言って騒動になったら、
もし、自分で決めてやったことが大ハズレだったら
そこから出てくる想いを受け入れ、じっとしている。
何かのアクションを起こすのは、
じっとそれを見つめ、起こっていることに気づき、
受け入れる、と力強く凛と決めてからである。
だから、
モヤモヤした葛藤が出てきて、即座に兄貴ぃー!
ではない。
先ずは、自分で想いと真正面から対峙し、
大丈夫、それでいい、絶対に君は悪くない、と、
先ずは自分が自分に宣言する。(兄貴ではない)
起こってない、世界は無い、はその後のことだ。
自分の想いを受け止めてやれるのは
他でもない、自分だけである。