香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

やすらぎ土曜日

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今日の香港の気温は22℃。雨が降っている。

 

昨日の土曜日はウェブシェア会だったので、

 

朝八時に起きた。

 

お蔭で、せっかくの土曜を、

 

うだうだ昼過ぎまで寝て過ごすこともなく、

 

充実した一日を送ることができた。

 

 

今回のウェブシェア会からは趣向を変え、

 

前半は、ボクともりGさんでトークを展開し、後半は、

 

シェアしたい人がシェアする、という形式を取った。

 

トークでは、主に決断の主体の話をした。

 

そして、

 

シェア会の最後のほうで、もりGさんが言われた

 

「自分は何のためにコースをやっているのか、一度、

 

 ちゃんと自分に訊いてみるのもいいかもしれません。

 

 なぜなら、コースは世界を越えてゆくものであり、

 

 コースを通してこの世界の平安を得ようと思うのなら、

 

 別にコースをやる必要はないからです。

 

 別のメソッドのほうがはるかに幸せになれます。」

 

という言葉がとても印象に残った。

 

 

コースは万人向けではない。

 

僕も、コースを絶対人には薦めない。

 

だって、コースはもう、世界を終わらせてゆく道なので

 

現実の問題を解決することには意味を見出さないからだ。

 

それに、全く癒されていない心で赦しを行なうと、

 

さらに自分を痛めつけてしまう可能性もでてくる。

 

なので、まずは医療も含めた別のメソッドで、

 

ある程度心が癒されてからコースを始めるのもアリだ、

 

と思っている。

 

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↑ タイキックのトレーナー。本当のタイの人。 

 

昼からは、コーヒーやワインを飲みながら、

 

小説を書いたり、WOWOWで映画を観たり、瞑想したり、

 

と、静かに決断の主体と向き合いながら過ごした。

 

 

決断の主体の位置に在ることで救いとなるのは、

 

どんな事も、全部〝ここ〟だけで行なわれており、

 

〝ここ〟だけが唯一の問題だった、ということである。

 

それが解かると、現実を変えようとすったもんだするのが

 

いかに無意味であるかが実感できる。

 

そうやって、

 

分離なんて、そもそも起こってもいなかったんだ、と、

 

安心して聖霊兄貴に全てを選び変えて行ける。

 

 

こうして自分の選択ミスを認め、全てを神に返せば、

 

いままで、喉から手が出るほど欲しかったものが、

 

すでにここに在ったということも見えてくる。

 

うまく言えないが、

 

たとえ無一文でも全部持っている、という感覚。

 

 また、

 

いないはずの自分が、無いものを見て感じている、

 

という、寝ている時に見る夢の中の感覚になってくると、

 

これまで、ぎゅっと握って来たもの、僕の場合だと、

 

香港に暮らす自分、会社員の自分、作家としての自分、

 

というアイデンティティや、筋トレ、ラム酒、家にある家具、

 

と言った趣味嗜好、果ては、父が待つ故郷へ還る、

 

というような、思想信条的なものに至るまで、

 

これまで、ぎゅっと握って離さなかった様々な執着が、

 

とてもフラットなものに見えてくる。

 

ただしそれは、執着を手放す、とか、どうでもよく思える、

 

といったものではなく、逆に、

 

様々な現実的なものを普通に受け容れ、楽しめる。

 

結局は夢の中なので、何をどう行動してもオーケーなのだ。

  

↓ 三年前の今日、丹波の山奥にいた ↓   blog.hoshitani-shusaku.com

 

というわけで、今日は午後から筋トレに行った。

 

僕のトレーナーが今のジムを辞めて独立したため、

 

ここのジムを使うのも今日で最後となる。

 

今後は、トレーナーが時間契約で使うジムで、

 

トレを行なってゆく。

 

 

そして、筋トレを終えて、香港そごうに寄った際、

 

どこを探してもなかったあのマイヤーズラムが、

 

一本だけ置いてあるのを見つけた。

 

スーパーで買うと2200円のラム酒が、

 

百貨店で買うと3700円もする…。

 

 

こ、こ、これも、自分で選択したのか。

  

くうぅーっ! 

 

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悪いのはいつも他人

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決断の主体の位置から、やっていることを見ていると、

 

自分はいつも正しく、悪いのは常に他人、という、

 

どこまでもワンパターンな投影があることに気づく。

 

 

〝彼が発した一言は私を傷つけた、故に彼は有罪だ〟

 

〝私の平安を乱した奴は、大きな罰を受けるのだ〟

 

というふうに…。

 

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また、人以外の、ちょっとした状況や出来事にも、

 

〝死ぬのはいつも他人パターン〟を使っている。

 

 

今日仕事帰りに、マイヤーズラムを買おうと、

 

AEONの酒屋さんに立ち寄ったら売り切れていた。

 

他の店を覗いても売り切れで、結局買えずじまいだった。

 

「仕方がない、そのうち入荷するだろう。」

 

と思いつつも、決断の主体の中を覗いてみれば、

 

自分は無実で何も悪いことをしていないのに、

 

無実の自分が欲しているラムを置いていないなんて、

 

なんということ、有罪だぁーっ! とやっている。

 

 人だけではなく、状況をも断罪している。

 

 

また、数か月前に、突然の東京帰任命令を受けた際も、

 

香港から離れる喪失感に見舞われたりしたが、

 

これも、決断の位置に戻ってみれば、

 

香港は善で、東京は自己の平安を脅かす悪だ、

 

とやっていたことも、ありありと解かる。

 

それも、

 

もとはひとつだった意識が二極に分かれ、

 

高速早変わりで、一人芝居をしている。

 

 

そして、一番の要(かなめ)は、

 

それを自分で望んで選択してたんだあ、という点にある。

 

自分は無実なのに、ひとから責められ攻撃されることを、

 

自ら欲してやっていた、と認めるのは非常にキツい。

 

思わず、そんなこと自分はやってない、と、

 

弾き返したくなる。

 

なぜなら、自分で自我を選択していた事を認めてしまうと

 

これはただの選択で、聖霊に選び変えることができる、

 

と、気づいたしまうからだ。

 

そうなると、自我は消えるしかなくなり、そのため、

 

さまざまな罪悪感を強化するようなものを出してきて、

 

何としても最後の砦を守り抜こうとするのだ。

 

 

しかし、

 

「ああ、全部わたしがやっていました。

 

 この世界で苦しむことを選択したのは、わたしでした。

 

 でももうウンザリなんです。もう、止めたいんです。

 

 なので、わたしは今、聖霊を選択し直します。

 

 自分ではもう何もしませんので、よろしくお願いします」

 

と、口先ではなく、心からの懇請が起こらないと、

 

決断の主体へはたどり着けない。

 

「決断の主体から見ればいいのね。はい、やってみます」

 

というわけにはいかないのだ。

 

 

だが、最速で投影のベールを打ち破る手段がある。

 

地獄経由である。

 

上司やパートナーや家族と史上最悪の関係にある、とか

 

身体が不自由だ、壮絶なイジメに遭っている、破産した、

 

など、こういう時こそ、神(天国)に最も近い場所にいる。

 

もう、この世界にはいたくない、こんな世界は要らない

 

と心底望み、聖霊に助けを求めたとき、

 

一直線で〝ここ〟へゆく。

 

ただ、誤解を避けるために言うならば、これは、

 

自殺などの死を以って天国へ逝くという意味ではない。

 

 

しかし、そこまでのことをせずとも、

 

普通の暮らしの中でも十分赦しどころは満載なので、

 

まずは、差し出されたものからやってゆく。

 

 

といっても、僕は、決断の主体に戻りたてホヤホヤの

 

初心者なので、まだまだこの世界を実存させている。

 

社内のスカイプ会議で、ちょっとツッコまれれば、

 

しどろもどろになって、びゅんびゅんするし、

 

必死のパッチになった自我からの逆襲も来る。

 

それでも、

 

自我と同一化することなく、決断の主体に留まり続ける。

 

そうやって、実践していくことで、決断の主体が主になり、

 

やがては聖霊とひとつになってゆくのだろう。

 

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そして、僕の場合、決断の主体にいても、

 

立ち上がれない程の強烈な隠蔽が浮上してこないのは、

 

やはり、この5年間、強制帰還道場(別称:会社)で、

 

朝から晩まで、幻想を直視し、

 

次々に顕われる事象や兄弟たちを、

 

ガンガン狂ったように赦しまくってきたからかもしれない。

 

そういう意味で、兄弟たちには大きな大きな恩義がある。

 

(いや、まだまだこれから、なのかもしれないが…。)

 

 

というわけで、僕はいま、会社で業務をこなしながら、

 

決断の主体に留まった場所から、

 

これは全て決断の主体の中で起っていること、として、

 

聖霊に選択し直していっているが、

 

会社員を続けるかもしれないし、辞めるかもしれない。

 

ていうか、どっちでもいい。聖霊にお任せ、すらしない。

 

だって、これ、実在してないんだから。

 

 

なので、僕はもう本当の神の平安だけを得たい。

 

偽の平安は必要ない。却って障壁になるだけだ。

 

 

とまあ、こんな感じの今日この頃である。

紀平選手やってます

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奇跡講座を教えたり、奇跡講座的活動をすることで、

 

生活の糧を得ている方もたくさんおられると思うが、

 

僕なんか、もっとすごい。

 

会社からお金をもらって、奇跡講座をやっている。

 

しかも、ボーナス、有給休暇付きで…。(←ドヤ顔のボク)

 

 

もちろん、仕事だってそれなりに(笑)やってるよ。

 

でももう、完全に赦しが仕事になってしまっている。

 

(※ああ、このブログを社長が見ていないことを祈るよ!)

 

 

例えば、同僚と打ち合わせをしたり、電話で話をしたり、

 

メールを読んだり、デスクワークをしたり、

 

何人かで他の同僚の噂話をしているようなときでも、

 

ずっと、決断の主体の位置から、聖霊と共に、

 

分離など起こってなかった、と無実の兄弟達を観ている。

 

 

このように、ずっと、

 

決断の主体の位置に一点集中して過ごしていると、

 

全部、決断の主体の位置だけで起きている事が解る。

 

外側では何も起きていないし、故に無意味だ、

 

と、ありあり実感できる。

 

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↑ 銀行に行ったら獅子舞やってたよ!

 

で、春節が過ぎ、明確に変わったのは赦しの質である。

 

 

これまでは、幻想世界の出来事から浮上する罪悪感を、

 

その都度、決断の主体まで運び、赦していたが、

 

いまでは、逆に、決断の主体の位置から、

 

分離させた自己と他者のやり取りを、

 

それは起きていない、分離もなかった、と赦している。

 

 

これはただの〝罪悪の投影〟という、

 

一人でやっている〝罪の押し付け合い劇場〟で、

 

ひとつの間違った心(自己概念A)がやっている。

 

自己の罪も、他者の罪も、ここから見れば、

 

ひとつのものだった、ということが明らかになる。

 

 

ただ、この感覚は、非二元や悟り系が言うような、

 

肉体の自分を、もう一人の自分が冷静に観察している、

 

というのとは完全に違っていて、なんていうか、

 

決断の主体の中で全部が起きている。

 

「なあんだ。ここだけじゃん!」といった感覚なのだ。

 

 

「相手に罪を投影して自分が正しいと主張したいんだ。 

 

 でも実は、ひとつの意識がやっている。

 

 だから、攻撃も自分が自分にしているんだな。

 

  なにより、それを決断したのも自分だった。」

 

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↑ 子犬がダンスしているみたいでとってもかわいい

 

仕事中も、寸分の隙もなく、この位置にいる。

 

業務上の問題点、期日までにやるべきこと、など、

 

日々様々な兄弟たちが僕の眼前に顕れては、

 

様々なパフォーマンスを見せてくれる。

 

その中で、決断の主体に留まりながら、

 

これも〝ここ〟だけで起きていて、

 

外では何も起きてない。

 

相手がいるように見えているけれど、

 

それも、ひとつの意識を分離させて見ている、

 

ひとり芝居に過ぎないんだ。

 

そもそも分離などは起きておらず、

 

故にこれは妄想なんだ、ということが、

 

明白に見えている場所から聖霊に選び変えてゆく。

 

 

でも、最初からそううまくはいかない。

 

でも、何度も、何度も、何度も、数をこなしていくうち

 

仕事中でも、決断の主体の中に留まれるようになった。

 

 

昔は、仕事中に一体どうやって内側をキープするのか、

 

と不思議に思っていたが、なんのことはない、

 

はなから内側の〝ここ〟でしかやっていなかった。

 

決断の主体で選び間違えていたからこれが起きていた。

 

そうなると、内側に留まっている方がラクに思えてくる。

 

 

それに、企業などの一般社会で実践していると、

 

嫌でも数をこなすので、静かな環境で学んでいる人より、

 

熟達度が半端なく加速化することは間違いない。

 

何しろ、次々来るので、赦しを休んでいる暇が無いのだ。

 

 

それで、最後には、

 

仕事でさえ起きてない、だって自分もいないから、

 

という所まで来る。

 

  

考えてみれば、フィギュアスケートの紀平選手だって、

 

休む間もなく、狂ったように練習しているから、

 

普通にトリプルアクセルが飛べるようになったのだ。

 

そういうわけで、

 

数をこなせる環境にいるのはラッキーだと言える。

 

 

なぜなら、自我の大気圏を抜けようとするとき

 

重力(向い風)に耐えながら実践する時期を通過する。 

 

従って、日常で何の負荷も感じていない、ということは、

 

まだ地上に留まっていたいということなのかもしれない。

 

それはいわば、自分が乗ったロケットは発射され、

 

今頃は火星の辺りかな、と思って窓から外を見たら、

 

なんとロケットは発射すらしておらず、

 

自分の家が見えました、みたいな…。

 

これって、ホラーだよ。

 

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全部、全部、この、眠った神の子の中でやっている。

 

〝ここ〟でしか起きていない。

 

しかも、神との分離は起こっていなかったのだから、

 

全ては夢で存在すらしていない。

 

その位置から、

 

神の愛を拒否する選択をした自分を潔く認め、

 

分離は起こってなかった、と、聖霊を選択し直す。

 

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↑ 一匹の獅子が近づいてきて僕の頭を噛みに来た。 

  神にキターっ、と自ら食い気味に頭を差し出した。

 

もう、一日中、そんなことばかりしてるせいか、

 

仕事を終えて会社を出ると、

 

外側の世界のリアル感が完全に喪失してしまっている。

 

まるで、外側が夢で、内側が現実世界になったみたい。

 

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