↑ ひとりカレー。これが佛山での最後の夕食。
今朝、出勤途中の地下鉄の中で、気づきが訪れた。
そのとき、僕は座席に座っていたのだが、
周囲の人たちを何となくボーっと眺めていたとき、
〝ああ、そうか。 これはみんな、自分も含めて、
ひとつの心の無数の側面にすぎないんだ。〟
ということが、ストン、と理解できたのだ。
そのとき、僕は、心そのものとなっていたと思う。
スマホをいじっているOLさん。
眉間に皺を寄せて一点を見つめるスーツの男性。
大陸からのおのぼりさんの集団。
大きな荷物をいくつも抱えるクーリエのおばさん。
そして、ケリーの後釜はいつ現われるのか、と、
あれこれ考えてながら電車に揺られているボク。
全員、ひとつの心の分離した側面でしかない。
ひとつの心だけがあり、無数の他者は、
分離したように見えるけれども、
ただ、ひとつのなかの別の側面として表層に
現われているに過ぎず、今でもひとつだ。
喩えるなら、自分の体の一部を見ているのと同じだ。
なので、相手を叩けば、自分を叩くことになり、
外界として顕れている自分の中を赦すことによって、
相手は癒され、心へとひとつに統合される。
そうやって、自分もまた統合され、幸せに消えてゆく。
また、その過程に於いて、
断片を心へ返すことを意思するのは自分であり、
統合を行なうのは、聖霊である。
文字で書くと、どうしても、スピ本などでよく聞く、
ステレオタイプの言葉にならざる負えないのだが、
今朝は、本当に震えが来るほど、
それを本当にそうであると、リアルに体感できた。
正直、こんなの、言葉で説明するのなんて無理だ。
↑ 広州東駅の天窓。
こんなにきれいなのに、誰も天を見上げない。
美しいものがここあっても、
見る意思がなければ見られない。
聖霊兄貴もここにいるのに、
繋がる意思がなければ繋がれない。
ケリーの後任探しの旅は続いている。
今は旧正前だからか、これだ、という人材が来ない。
やっと面接をアレンジしても、ドタキャンされたりする。
これまで三人ほど面接をしたが、なんか違う。
100のワクワクじゃない。(←ここ、笑うとこです。)
来週中には決めないとやばいかも、という想いを、
これは、父から離れたと思い込んだときの、
絶望感から来るパニックを反映したものとして捉え、
しばらく感じてから兄貴へ返していく。
面接中も、相手を、自分と同じひとつの心の、
側面に過ぎないと捉え、赦し、兄貴へと戻してゆく。
もう何十年も人事をやっているが、
こんなにも人が採れないのは初めてだ。
一年ごとに職を変えている人だったり、
必要なのは財務の経験者なのに、総務経験者だったり、
もう、本当に笑っちゃうくらい、
的外れな履歴書ばかりが来るのだ。
僕は、職務経歴書と履歴書を見ただけで、
その人がどんな性格で、
うちの会社に合う人材かどうかを見抜くことができる、
という特技を持っているのだが、今回だけはもう、
面接に来てもらっても、一目で「あああ、ちがう。」
と分かる人ばかりなのである。
決して本人のキャリアを否定しているわけではなく、
もう最初の五秒でうちの会社に合わないと分かる。
本当に、わざとらしいほど、一人もいない。
それでも、これもひとつの心の別の側面で、
もとはひとつなのだ、と、
履歴書の一つ一つを赦し、兄貴へと昇華させてゆく。
この夢の現実を、
新人採用のために使うのではなく、
心の中を見て赦すためだけに使っていく。
てか、人材自体が来ないんだもん、
そうするしかないじゃんっ!かーぁっ!
(↑ to 兄貴)