香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

わ・た・し・が、やりました!

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3月の香港は、ずっと雨が降っていて、気温も16度、と、

 

じめじめした肌寒い毎日が続いている。

 

この時期は、壁などに結露ができ、カビが発生しやすく、

 

革のカバンや、紺の背広からは白いカビの粉が吹く。

 

お手伝いのチョイ姐が、〝水取り象さん〟を、

 

クロゼットにセットしておいてくれるが効果はイマイチだ。

 

仕方なく、寒いのを我慢して、エアコンで除湿をする。

 

来月東京出張が入ったので、陰気な香港を離れ、

 

サクラの季節に合わせて行こうと計画している。

 

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というわけで、

 

自我が絶対に知られたくないこと、それは、

 

父からの分離は、はなから起こっていなかったが故に、

 

僕たちは決断の主体へ戻りさえすれば、

 

いつでも自我から聖霊へ選び変えることができる、

 

という真実である。

 

 

その真実に気づかせないために、

 

自我は全力で、様々なトリックを用いながら、

 

僕たちを決断の主体まで戻らせないようにする。

 

 

そのトリックのひとつに、脅しによる恐怖、がある。

 

神から罰せられる、という原因に起因する恐怖、

 

果ては、突然犬に吠えられた、スマホが壊れた、

 

誰かから攻撃される、といった幻想レベルの恐怖まで、

 

僕たちはもう、あらゆるものを怖がっている。

 

そして、あらゆるものを怖がっているのは、

 

神を恐れている、ということの反映であるので、

 

僕たちは、神へ帰ろう、とは絶対に思わなくなる。

 

 

ふたつ目のトリックは、幻想の愛と平安、だろう。

 

「この人(恋人/子供)がいるからわたしは幸せだ。」

 

「わたしは、大好きな人に囲まれ、穏やかで恵まれた

 

毎日を過ごしている。」

 

といった、何かが起こることで得られる幸せや、

 

限定的な愛に、僕たちの意識を留めておくことで、

 

本当の愛や平安に気づかないようにさせる。

 

 

 

また、

 

原因まで戻った赦しをするようになって目撃したのは、

 

神の愛を拒否した、天国から離れた、という妄想を、

 

〝自分が率先して〟信じた、という事実だった。

 

 

罪悪感は〝自分が信じた〟がために生じたのだ。

 

 

分かり易く言うなら、

 

『家売るオンナの逆襲』に出てくる北川景子のように、

 

「聖霊でも自我でもなく、わ・た・し・がやりました。ゴー!」

 

という感じか。

 

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〝罪悪感が造りだされた場所〟まで戻り、

 

神からの分離を信じた、という瞬間を直視してみると、

 

全ての原因は〝わたしが信じた〟ことに起因していた

 

ことを、しみじみ実感する。

 

と同時に、事実ではないことを信じたのだから、

 

選び変えることができることも分かってくる。

 

 

そして、このプロセスをを辿って選び変えるまでが、

 

今の僕にとっての赦しとなっている。

 

 

そうやって、心の中に留まる時間が増えてくると、

 

現実世界の状況とはまったく関係のない平安、

 

エクスタシーにも似た理由のない多幸感に満たされる。

 

その感覚で兄弟たちと接すれば、みんな例外なく、

 

神の子であり、何ら差異はないことが分かり、

 

有難い気持ちで一杯になる。

 

 

仕事は忙しいし、帰任の準備も始まるし、

 

赦しのレッスンは次々に差し出されるにもかかわらず、

 

それでも、心の中は平安の光が射している。

 

 

結局、心の中の〝あの場所〟だけが全ての原因で、

 

そこで選び変えれば、全ては逆転する。

 

映像にはなんの力もない。

 

 

だが、僕は、

 

この決断の力を使って、現実を変えようとは思わない。

 

なぜなら、ハートのエクスタシーを知ると、

 

そんな現実のことなど、どーでもよくなってしまうからだ。

 

神だけでいい、真剣にそう思える今日この頃である。

動く塊り

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毎度おなじみ、フィリピンのスービックに来ている。

 

今回は、聖霊部長(元コンババ)と顧問の三人旅だ。

 

ホテルも、レストラン街も、

 

全て工場から歩いていける距離にあるので、

 

仕事帰りに徒歩で食事へ行き、バーで少し飲んでから、

 

また徒歩でホテルへ帰る。

 

 

顧問は、会うたびに、ワインをしこたま御馳走してくれるし、

 

聖霊部長は、最近、まるで世話焼き女房のように、

 

いつも細々とした仕事のフォローをしてくれる。

 

工場の人たちも、みんな、陽気で、優しい。

 

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↑ 夜の海岸でひとり、静かに瞑想をした 

 

僕の場合、同僚から、

 

ここ間違ってますよ、とか、ここはこうした方がいいですよ、

 

というアドバイスを受けると〝指摘された〟とは思わず、

 

〝助けてもらった〟と、感謝の気持ちで一杯になる。

 

最近は 「ありがとうございました。助かりました。」を、

 

一日何回も言っているような気がする。

 

 

それと、現実生活の諸問題についても、

 

原因に戻った赦しを経て、ひとたび聖霊を選んだら、

 

基本、自分であれこれやらず、聖霊に任せている。

 

そして、僕にとっての聖霊に任せる、とは、

 

兄弟に任せる、とほぼ同義語と言っていい。

 

なにか、直感的な導きで動くときもあるが、

 

大抵は、周囲の兄弟を通して導かれることが多い。

 

たとえ、兄弟から差し出されたものが、

 

心地のよいものではないものだったとしても、

 

そのことを、ある時はちゃんと兄弟(聖霊)に表現したり、

 

またある時は心の中を見つめながら、

 

心地悪さを直視して、原因まで戻った赦しをする。

 

それでも、最近は、

 

前回の記事で書いた〝プロテインバー代金返却事件〟

 

のようなことは少なくなり、

 

どう考えてもあいつが悪いと見えるようなことでも、

 

それをどうするかは自分の仕事ではなく、

 

聖霊兄貴に任せればいい、と一歩退けるようになった。

 

 

一日を兄弟(聖霊)に任せて過ごしていると、

 

大いに助けられることもあるし、また逆に、

 

自分が隠蔽しているものを見せられることもある。

 

いずれにせよ、今の僕は、どちらも、

 

心へ戻ってゆくステップとして使ってゆく。

 

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↑ 僕が筋トレをしながら毎日たんぱく質を200g

   摂取していることを話すと、工場の日本人スタッフが、

     ステーキハウスに連れて行ってくれた。

 

そんなわけで、

 

3月のフィリピンは、もうすでに夏本番、という感じだが、

 

まだ乾季なので、空気は乾燥していて爽やかである。

 

 

 

ここのところ、毎週アジアの異なる場所で過ごしているが、

 

ずっと決断の主体に戻ることばかりをやっていると、

 

自分はいつも同じ場所から一歩も動いたことがなく、

 

常に空間の方が、

 

舞台装置のようにくるくる動いているような、

 

不思議な感覚になってくる。

 

 

兄弟たちを赦したいと望めば望むほど、

 

肉体としての兄弟は本物ではなく、

 

ただの〝動くかたまり〟のように見える。

 

 

神の子である本物の兄弟たちは、

 

肉体を越えた場所にいる。

 

表現して出す

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昨日、久々に、トレーナーのもとで筋トレをした。

 

僕のメニューは、とにかく高重量を挙げまくる、というもので

 

120キロのバーバルを肩に担いでスクワットをしたり、

 

100キロのダンベルでチェストプレスをする。

 

もう、これ以上は無理、と思ってからも、

 

トレーナーの補助で、もう3回ほど挙げさせられる。

 

 

「そのまま倒れても、僕が補助するから大丈夫」

 

「まだやめろと言ってない。弱音を吐かないっ!」

 

「限界を自分で決めない。僕が挙がるって言ったら挙がる」

 

と、吐くほど辛い僕に、トレーナーが激を飛ばす。

 

 

筋肉をつけるには、先ず、その部位に高負荷をかけて、

 

筋肉繊維を破壊させる必要がある。

 

その壊れた筋肉繊維が修復される際に、筋肥大が起こり、

 

筋肉量が増え、脂肪が燃焼する。

 

 

赦しの実践も、筋トレに似ている。

 

聖霊は、ある程度の負荷(葛藤や苦しみ)を与えることで、

 

心の位置(真に選び変える場所)まで僕達を戻そうとする。

 

自我モードで見れば、葛藤や苦しみは、回避するもの、

 

または、乗り越えるもの、として捉えられるが、

 

聖霊モードで見れば、それは聖霊トレーナーが差し出す

 

故郷へ戻ってゆくためのトレーニングメニューとなる。

 

なので、何かの葛藤や苦しみが起きた時、

 

聖霊は、その現実を神へと戻ってゆくために使う。

 

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↑ 今日の赦しはコレ 

 

これは、僕自身の〝コースあるある〟なのだが、

 

コース兄弟に葛藤や苦しみが起きる状況のひとつとして、

 

思っていることを言っちゃったが為に、葛藤でびゅんびゅん

 

というのがある。

 

 

例を挙げると、

 

先日、プロテインやいろいろなサプリを売っている店で、

 

プロテインバーを5本買った。

 

だが、後でレシートを見てみると、6本購入になっている。

 

即行、店へと引き返し、一本分多く支払ったので、

 

その分を返金してくれ、とカウンターの兄ちゃんに言ったら、

 

店の規則で、返金は一切できないが、その代わり、

 

多く支払った分のプロテインバーを差し上げます、という。

 

兄ちゃんの言うことを全て受け入れるか、それとも、

 

ちゃんと主張をして返金をしてもらうか、一瞬、迷った。

 

が、僕は後者を選んだ。

 

「これは計算ミスをした店側の責任ですよね。

 

   なのにどうして返金してもらえないのですか

 

   僕は5本しかプロテインバーは必要ない。

 

   だから、ちゃんと返金してください。」

 

凄い目をしてスタッフの兄ちゃんに言ったら、

 

びびった兄ちゃんは、即座に返金してくれた。

 

 

多分、コースも何もしていない普通の兄弟であれば、

 

それで一件落着、となるのだろうが、

 

これがコース兄弟となると、そうはいかない。

 

兄弟を咎めてしまった(神を咎めてしまった)という、

 

罪悪感から来る葛藤を直視することとなる。

 

 

また、他のコース兄弟が、

 

こんなやり取りをしているのを目の当たりにしたら、

 

「バリバリ咎めてるやん!」と思ってしまうのだろうが、

 

僕の場合、その葛藤を浮上させるために、敢えて、

 

兄弟に対して「それはおかしい。」と思っていることを、

 

きちんと表現する。

 

それで、出てきたびゅんびゅんを赦してゆく。

 

 

なぜなら、

 

「こんなことを言えば、兄弟を咎めることになるので、

 

 何も言わずにただ受け入れ、心の中で兄弟を赦そう。」

 

と、思った時点ですでに咎めているので、

 

言っても、黙ってても、結局は同じなのだ。

 

それであれば、その時、兄弟に対して感じた葛藤を、

 

キチンと相手に伝え、その結果、上がってきたものを、

 

赦していくほうが、僕の場合は手っ取り早い。

 

 

ただ、葛藤からくる怒りを兄弟に伝える際に、

 

僕自ら注意していることは、

 

兄弟に100%の信を置いて内部の葛藤を表現する、

 

赦しを完結させるために出す、ということであり、

 

決して、相手を攻撃するために主張するのではない、

 

という点だ。

 

ここだけは、聖霊と一緒にちゃんと観ている。

 

 

要するに、咎めない、裁かない、というのは、

 

先ず、咎めている自分をキチンと認め、

 

そこから出てくる気持ち悪いものを、

 

直視することから始まる。

 

そうやって、忘却の心の中でやっていることを、

 

表へだすことで、 自然と聖霊へ選び変えてゆく。

 

 

というわけで、明日からフィリピンだというのに、

 

今日は、筋肉痛で階段も登れない。