香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

悦楽台北

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一時帰国休暇が始まり、昨日から台北に滞在している。

 

前回、台湾へ来たのははいつだったのだろう、と、

 

自分のブログを検索してみると、2017年6月だった。

 

こんなとき、ブログを書いててよかったな、と思う。

 

自分の過去の記録が随時網羅されているので、

 

「あの頃、こんな事をやったり、考えたりしてたんだなあ。」

 

と、忘れていた過去から、いろいろ学ぶことができる。

 

 

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台北は、三日とも終日篠突く雨だった。

 

暑くはなく、半袖だと夜は寒いくらいだった。

 

台北では、僕の小説の編集者と林森北路で飲んだり、

 

西寧南路で、古い友人と会って食事をしたりした。

 

 

ホテルは、大安路にある『ラ・スイーツ』に宿泊した。

 

とても小さなホテルだが、居心地は最高によかった。

 

勝手にコーヒーを飲んでも、グラスを持ち出しても、

 

何をしても放っておいてくれる。

 

まるで自分の家にいるみたい。

 

夜は、誰もいないラウンジで、ひとりワインを飲みながら、

 

深夜まで書き物をして過ごした。

 

 

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ホテルの近くに盲人按摩の店があったので寄ってみた。

 

仙人みたいな、おじいさん按摩師にやってもらった。

 

これがもうすごくて、全く力も何も入れてないのに、

 

指でぐりぐりツボを押されるだけで、

 

「ああ、そこそこ。気持ちいいっ。うう、ひいいーっ。」

 

と、自動ヴィパッサナー状態に陥っていた。

 

そんな神業マッサージを受けているうちに、

 

これは、神に触れられているのだ、と気づいた。

 

神の悦(エクスタシー)を、ただ受け取っていた。

 

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以前は、兄弟を神として〝観よう〟とする所があったが、

 

いまはもう、兄弟はすでに神であり、愛である、と、

 

完全に智っている状態で兄弟を見れるようになっている。

 

 

神は〝愛〟という、ひとつの解釈しかなく、

 

自分は神と同じものであるが故に、自分もまた愛である。

 

神と同じ存在である自分が、

 

自分を愛するのと同じように、兄弟を愛するとき、

 

兄弟も、神と同じものであったことを認識する。

 

この時、自分が神の交歓を行なっていることを自覚する。

 

 

神と同じものである神の子が見ている夢は、

 

やはり、愛の夢であるはずである。

 

なので、そうではないものを感じ取った時、

 

例えば、

 

異常にテンパって、訳の分らない行動に出てしまったり、

 

誰かに何かを思い切り否定されたり、

 

過去の出来事からくる小さな憎悪が湧き上がってくる時

 

神であり、愛である兄弟が、そうである筈がない、と、

 

思い出すことによって、自我を神に置き換えてゆける。

 

それが〝自我に警戒する〟ことの意味である。

 

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台北最終日の夜、中華航空からメッセージが入った。

 

明日の朝8時発の台北-那覇便は、

 

台風の影響で、午後3時半出発となりました、とある。

 

これなら、ホテルで朝ごはんもしっかり食べられるし、

 

今夜はいくら夜更かしをしても大丈夫。

 

ひゃっほーいっ!

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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兄弟は決して僕を傷つけない

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先週、月に一度の定例部門長会議があった。

 

海外にいる僕だけ、スカイプで会議に参加をした。

 

これは、各部門長が、一ヶ月に一度、

 

自分達の部門の実績を社長に報告する会なのだが、

 

僕も、事前にパワポの資料を作成し、

 

香港支社の財務状況などを発表することになっていた。

 

 

実は、僕にとって、この会議が非常に苦痛なのである。

 

おおぜいの人の前で何かを発表することに、

 

極度の緊張を覚えてしまうからだ。

 

特に、財務的な数字に関しては、

 

重箱の隅をつつくような質問をされたらどうしよう、とか、

 

数字の矛盾点を突かれたらどう返答すればよいのか、

 

という恐怖の思考がぐるぐる回り、会議の間中、

 

みぞおちの辺りが、ドびゅんびゅん状態となる。

 

 

要するに、

 

人前で攻撃を受け、恥をかくのが怖くてたまらないのだ。

 

しかも、香港支社の発表は一番最後なので、

 

順番を待つ間中、ずっと胸がバクバクしっぱなしとなる。

 

 

実際のところ、

 

社長も役員も、決して攻撃的な人たちではないのだが、

 

そうと解かっていても、やっぱり、ダメ…。

 

 

それで、今日もずっと、みぞおちの奥の辺りを、

 

ドクドクびゅんびゅんさせながら、順番を待っていた。

 

赦そうとしても、心はいっぱいいっぱいで、

 

聖霊どころではない。

 

 

そこで、

 

動揺している間は赦しなどできない、と観念した僕は、

 

先ずは落ち着こう、と、神を思い出すことに専念した。

 

すると、あと10分ほどで自分の番が回ってくるーっ、

 

という段になって〝神の理解〟が戻ってきた。

 

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⇑ 定例会議の後、午後からハーバーシティにある

   CUCINAイタリアンレストランで、

   ランチミーティングに参加した。 

 

「神って、ただ〝愛〟そのものなんだよな。

 

 そして、兄弟も神と同じ存在なんだよな。

 

 じゃあ、神と同じ、愛そのものである兄弟たちが、

 

 自分を傷つけるわけないじゃん。

 

 そうだ、

 

 父が僕を攻撃するなんてあり得ないのと同じく、

 

 兄弟が自分を攻撃するなんてあり得ない。

 

 だって、彼らも神と同じ愛の存在なんだから…。

 

 どんなに、攻撃されたように見えたとしても、

 

 それは、自分のこの感じ方自体が間違っているのだ。

 

 あ、そうか、ああ、そうだよ。

 

 父や聖霊兄貴が愛でしかないのなら、

 

 社長も、同僚たちも、愛でしかないはずなんだ。」

 

 

こんなに理路整然と、言葉にして悟ったわけではないが、

 

これらがごちゃ混ぜになった想いが突如として噴出し、

 

気が付けばみんな、

 

神の愛、という、ひとつの解釈に統合されていた。

 

 

やがて、僕の発表の番がやってきた。

 

結果は、前月と同様、会議は何事もなく終了した。

 

 

たぶん、この、公衆の面前で攻撃される、という恐怖は、

 

僕の転生の中で、幾度も投影され、習慣化されてきた、

 

自我の思考パターンそのものだったのだろう。

 

なので今後は、

 

こういった自我の思考パターンひとつひとつに警戒し、

 

それらを、神の愛に変換させてゆくことになる。

 

 

というわけで、

 

神の理解にまで至って、初めて赦しは完結することを、

 

体験を通して学んだ一日であった。

 

 

レンタルさん

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日曜日、フジテレビの番組 『ザ・ノンフィクション』で、

 

『レンタル、なんもしないボクを貸し出します』

 

という、ドキュメンタリーをやっていたので見た。

 

 

〝レンタルさん〟と呼ばれる35歳の〝ぼく〟は、

 

自宅がある国分寺駅からの往復の交通費と諸経費を

 

負担してもらえれば、いつでも〝ぼく〟を貸し出す。

 

ただし、条件は、飲み食いや、ごく簡単な受け答え以外

 

なんもしない、というもの。

 

そしてこのサービスが、いま、

 

東京に住む20代の女性を中心に大盛況なのだという。

 

 

依頼内容はと言えば、

 

恋愛感情を抱かない男性とファミレスで食事がしたい、

 

自分が作った曲を、目の前で聞いてほしい、

 

知り合いの前だと気を使ってヘラヘラする自分が嫌で、

 

嫌われてもいい相手と、真顔で一緒に食事をしたい、

 

おもてなしをしなくてもいい相手に泊まりに来てほしい、

 

ひとりだと家の片付けができないため、ただ隣で、

 

片づけをしている自分を見ていてもらいたい、など…。

 

また、おなら恐怖症の女性の後ろをずっと付いて歩き、

 

自分が本当に臭いか正直に述べてほしい、

 

いう依頼まであった。

 

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面白いのは、

 

レンタルさんは報酬を一切受け取らないことだ。

 

本人曰く、本当に何もせずに(金儲けすらせずに)

 

やって行けるのかを実験しているのだという。

 

 

依頼者が、

 

レンタルさんに求めているものは無解釈と無評価だ。

 

彼らは、自分がやったり、言ったりすることに、

 

「なんで?」と解釈や評価を差し挟まれたくない。

 

なので、あれこれ評価されるのを嫌う彼らは、普段、

 

知り合いや友人の前では決して素の自分を出さない。

 

 

しかし、それでもどこかで、

 

〝本当の自分を分かって欲しい〟という欲求はあり、

 

微妙は距離感でそのニーズを満たしてくれるのが、

 

レンタルさんだった、というわけである。

 

 

それに、

 

レンタルさんのちょっと虚無的でうつろな眼差しや、

 

どこまでも受け身で、ソフトなイケメンキャラが、

 

女性たちに安らぎを与える要因にもなっている。

 

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この番組を見ていて、なぜか聖霊兄貴を思い出した。

 

ただ〝無い〟だけを差出す存在である聖霊兄貴は、

 

隠蔽しておきたい秘密を、僕たちにそっとさらけ出させ、

 

それによって、僕達の心の中の罪悪感を取り消してゆく。

 

 

それから、レンタルさんの角度から見れば、

 

眼前で依頼者が起こしているパフォーマンスに対して、

 

何の期待も解釈もせず、この人はこうと決めることもなく、

 

ただ、起きていることを起きていることとして見ている。

 

本人が気づいているのかどうかは不明だが、

 

彼はきっと、眼前の依頼者の姿に、

 

無意識の罪悪感を映し出すことによって、

 

自分の心の中を直視しているのだろう。

 

そして、いつか彼は、

 

自分が本当は神を観ていたことに気づくのだ。

 

 

そんなわけで、明後日から長期休暇に入る。

 

今回の休暇は、もう神が自分の中にずっといた、

 

と知っている状態で迎える、初めての休暇である。

 

ゆっくりのんびり、

 

神の中でたゆたっていることにする。