香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

始まってすらいない世界

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 ↑ ここのモーニング。栄養バランスが抜群。 

 

春節を本格的に祝う香港は大みそかも普段通りである。

 

会社も、銀行も、お役所も、普通にやっている。

 

といっても、僕の場合、日本もフィリピンも休みなので、

 

業務の少ないこの時期に有給を消化している。

 

 

昨日は家でボーっとしていたが、大みそかの今日は、

 

チョイ姐が朝から年末の大掃除に来るというので、

 

早起きして、近くのカフェで朝食を食べた後、

 

ジムで自主トレをした。

 

その後、香港そごうとタイムズスクエアをブラブラした。

 

引っ越し以来、初めてタイムズスクエアの中に入った。

 

家から徒歩一分なのに、行こうとも思わなかった。

 

そごうで、IH対応のフライパンを買う。

 

家にあるフライパンはIH対応でないため、

 

料理をしても火が通らないのだ。

 

初めて知ったんだけど、フライパンって高いんだね。

 

ちょっといいやつは2万円くらいする。

 

で、結局僕が買ったのは、8500円くらいのやつ。

 

しかし、明日元日は、家の前で大規模デモがあるので、

 

このフライパンで、牛肉野菜炒めに挑戦するのだ。

 

 

夜、紅白と、笑ってはいけない、を飛ばし飛ばし見た。

 

やっぱり、欅坂がダントツ、もう平手にハマりまくり。

 

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 ↑ ブランドものを買わなくなったので、

   すっかりタイムズスクエアから足が遠のいた

 

普段はあちこち飛び回っていて、なかなか静かに、

 

神の理解を深められずにいるので、今週は家でじっくり、

 

この世界は幻想で、たとえ起こっているように思えても、

 

そこにテーブルがあるように見えても、起こってない。

 

ゆえに、それは間違いだと気づいて見過すことが、

 

赦しであり、間違いを取り下げることだ、

 

という気づきを定着させてゆく。

 

 

たとえ誰かからの攻撃に苦しんでいようと、

 

どんなに、金銭的な大ピンチに陥っていようと、

 

また、大切な何かを失った喪失感に苛まれていようと、

 

それがいくらリアルに体感されたとしても、

 

やっぱりそれは起こってない、という赦しをしてゆく。

 

大事なのは間違いに気づくことであり、

 

自分は間違ったものを見ている、という認識である。

 

 

ただ、ひとつ注意が必要なのは、

 

起こっていることを見てから(実存させてから)、

 

「いや、これは起こってない」というふうに、

 

言い聞かせでやっても取り消せない、ということだ。

 

 

「こんなことが起こってしまってどうしよう?」ではなく、

 

起こっても大丈夫、それは起こせてもいなかったのだから、

 

という認識をもつこと、それが聖霊を思い出すことである。

 

 

そしてこれは、自分の内面に対しても言える。

 

どんな憎しみや嫌悪感からくる妄想劇場が起ころうが、

 

過去の出来事を思い出して後悔の念に苦しもうが、

 

それは単なるまやかしであり、自分の罪ではない。

 

 

この世界を間違いと認識している聖霊は、

 

間違いを見つけると直ちに取り消すという習性がある。

 

なので、そういう妄想劇場が湧き上がって来たとき、

 

即座に自我が騙そうとしていることに気づいて取り下げ、

 

聖霊に修正してもらえばいい。

 

 

起こっているように見えてもできていないのであれば、

 

できているのは〝神の愛〟だけである。

 

できていないことを認識してそれを否定することで、

 

神の悦びの想念を受け取る。

 

できていなかった、という否定と同時にやってくるのは、、

 

神に愛されている、という事実のみである。

 

 

仕事も、信用も、全てを失うかも、とか、

 

一文無しになってホームレスになるかも、とか、

 

大切な大切なあの人が自分から去ってゆくかも、とか、

 

あまりにリアルすぎる恐怖を目の前にしても、

 

対処せずに見過すと同時に、神に留まっていると、

 

自分が無意識で信じたものの結果であるこの世界は、

 

自然となるようになってゆく。

 

ていうか、別にならなくてもいい。無いのだから…。

 

 

そして最後、赦しは何もしない、に帰結する。

 

消えゆく姿をあるがままに受け入れ表現させておく。

 

邪魔をせず、聖霊に任せ、神に留まる。

 

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↑ 見た目に反して味は悪くない 

 

というわけで、元日である。

 

クックパッドを見ながら、野菜牛肉炒めを作った。

 

オイスターソースとコチジャンがあったので、

 

味はどちらかと言えば、中華風である。

 

階下を見れば、通りは黒い人たちで埋めつくされていた。

 

元日の政府に対するデモが始まっていた。

 

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とまあ、こんな感じで年を越した僕であるが、

 

本当は何も起こっておらず、何もできていなかった、

 

というオチに無理やり持っていき、

 

とりあえず、フィニッシュ!

 

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呆けた一日

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30日は、ただ、家でぼーっと、脱力して過ごした。

 

ネットもせず、テレビも見ず、本も読まず、酒も飲まず、

 

トイレへ行くのさえ面倒くさく、体も思考も停止状態、

 

ソファの上で、天井を眺めながら、ただ放心していた。

 

 

夜中になってようやくサバの缶詰の夕食を済ませ、

 

それから、クラウド録画で、レコード大賞を見た。

 

氷川きよし以外、全員グループなんだね。

 

それから、

 

キャンディーズの伊藤蘭が『年下の男の子』を歌ってた。

 

この人、65歳くらいなのに、声も体型も当時のままだし、

 

この若さはスゴすぎる!

 

欅坂46の『黒い羊』もよかった。平手のファンになりそう。

 

 

それにしても、クラウド録画って便利だと思う。

 

民放、CS、BSの全ての番組が自動録画されていて、

 

見たい番組を見たい時に見れる。

 

それに、CMや興味のない映像はすっ飛ばせるので、

 

このレコ大も、一時間ほどで見終わっちゃった。

 

お気に入りの映画もUSBにコピーできるし、

 

そういう意味で、時間は消去されることで、

 

どんどん加速していっているのかもしれない。

 

 

こうやってユルユルと過ぎる年末年始の時間を、

 

〝自分の後ろ側〟の中で過ごしている。

 

後ろ側では、神の〝愛してるよ〟だけが実在しており、

 

その愛に触れるには、黙して語らぬ環境、つまり、

 

今のような、概念を使わない状況が必要なのだ。

 

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働いたり、子育てしたり、生活しているモードでいると、

 

I AM(私はいる)で愛を解釈してしまうので、即行、

 

〝愛してるよ〟は〝愛して欲しい〟にすり替えられる。

 

よって、心が静かに自分の内側と向き合える時に、

 

I AM NOT(私ではない)=それは起こせてない、

 

と、兄貴によって概念(外側)が取り消されることで、

 

自分が取り消され、GOD IS(神は在る)へ至リ易くなる。

 

 

I AM(私はいる)で否定した神を、

 

I AM NOT(私はいない)と再度否定されることで、

 

本当は、神の愛しかなかった、と認識されてくる。

 

 

要するに、神からの愛してるよ、という悦びを感じている

 

主体としての〝私〟が、真の自己(霊)なのではなく、

 

感じられている側、つまり、愛してるよ、

 

という想念の方こそが、本当の自分(スピリット)なのだ。

 

 

赦しを実践して、神に気づいたこの〝わ・た・し〟が、

 

父が待つ故郷へと帰ってゆくのではなく、

 

初めから故郷にいる私(霊)に気づくこと、すなわち、

 

本当の自己を発見するとは、自分が愛そのものだった

 

と知覚することこそが、心の機能となる。

 

 

そして、正常な心の機能とは、

 

最初に神を知りたい(愛したい)という意志をもつことで、

 

神の愛を体験し、結果その神の想念こそが自分だった、

 

という理解が起こることである。

 

 

そういう意味で、

 

いま、何もせずに、ぼーっと脱力していればいるほど、

 

兄貴は、間違いの取消しに奮闘してくれているのかも。

 

 

 

だから、もっと愛して!

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今日は、トレーナーとの筋トレセッションの日だったので、

 

昨夜、明け方までグダグダと色々やっていたのだが、

 

午前11時には起き、ジムのあるセントラルへ向かった。

 

おかげで、

 

日中を寝て過ごすことなく、一日を無駄にせずに済んだ。

 

 

今回は下半身と背筋を集中的に鍛えた。

 

スクワットではもう、吐き気を催すくらいキツかった。

 

それでも、身体はだいぶ絞れてきていて、

 

年末年始にドカ食いさえしなければ、一時帰国の頃には

 

目標体重58KGを、なんとかクリアできそうだ。

 

 

そして、今日の香港の気温は18℃、終日雨だった。

 

西洋人やフィリピン人が休暇で帰国しているせいか、

 

街は比較的静かで、夕食は冷凍餃子を焼いて食べた。

       

 

夜は部屋でまったり白ワインを飲みつつテキストを読む。

 

テレビ、ソファ、観葉植物、パソコン、中国家具の数々、

 

部屋中が〝愛してるよ〟と言っている。

 

厳密に言うならば、

 

これらのモノが愛しているよ、と言っているのではない。

 

その背後に流れている、自分は神から愛されている、

 

というメッセージを通して世界を観るから、

 

全てが愛の象徴に見えている。

 

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   ↑ 得意先の工場のポスター。

           「ケンカはご法度!

              負けたら入院、勝ったら牢獄。」 

 

例えば、スマホを〝私のスマホ〟として見るとき、

 

自分の中の、愛されたい、愛して欲しい、という欲求を、

 

スマホによって満たそうとしている。

 

しかし、スマホを神の反映として見るとき、

 

それは、神に愛されている、というメッセージとなる。

 

 

これは、周囲にいる兄弟たちについても言える。

 

目の前で誰が自分を攻撃していようと、

 

誰かが得をして、自分が損しているように見えようと、

 

彼らから受け取れるメッセージは、ただ、愛している、

 

という呼びかけだけである。

 

お気に入りのゲームや、愛車や、職業や家、または、

 

自分を愛してくれる何某、など、

 

これらを獲得することで、愛が得られると思っている。

 

ノー!

 

本当のメッセージは、神からの愛してる、だけ。

 

そして、このことを思い出すことが、赦しとなる。

 

 

じゃあ、どうすれば…、という話なのだが、

 

それには先ず、

 

誰かから愛されようとするのを一切止めることだ。

 

逆に言えば、もう誰からも愛されなくたって構わない、

 

だって神から愛されているから、と開き直ることでもある。

 

 

なぜなら、僕達は、

 

一秒たりとも神から愛されていなかった瞬間などなく、

 

その愛は常に変わることなくここに在ったので、

 

形態的な愛など必要ないからだ。

 

 

だが、僕達はあまりにもカタチある愛を信じてきたので、

 

愛されたい、から、愛されている(愛している)へと、

 

そう簡単には移行できないのも事実だ。

 

なので、幻想を見て、その奥にある本当のメッセージを

 

受け取る習慣をつける訓練が必要になってくる。

 

 

ガミガミ言ってくる誰かと対峙した時、

 

大好きなスマホゲームの中に没入しそうになった時、

 

また、お気に入りの車、洋服、場所、人間関係に於いて、

 

そこに形態的な意味を見出すのではなく、

 

それらの奥に在る〝愛してるよ〟を発見し続けること、

 

そういった訓練が決定的に必要となってくる。

 

 

そして最後には、

 

神の愛しかないことが体験的に理解できてくると、

 

もう、そういった訓練も必要なくなる。

 

 

というわけで、明日は、

 

香港そごうでも覗いてみようかなと思っている。