香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

潮風の日曜日

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👆 大澳名物の棚屋

 

今日は、以前から一度訪れてみたいと思っていた、

 

大澳(TAI O)という小さな漁村まで、早起きをして、

 

1人、列車やバスを乗り継ぎ、山越え谷越え行ってきた。

 

何しろ、自然を守るため、一般車両は通行禁止で、

 

専用バスも村の入り口までしか入れないので、

 

行くだけで、片道二時間半くらいかかってしまう。

 

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朝7時ごろ家を出て10時ごろ目的地に着いた。

 

中国からの観光客もなく、村は静かだった。

 

高層ビルや、人混みや、車の往来もなく、

 

花が咲き乱れ、その周りをアゲハ蝶が舞っている。

 

一瞬、ここは本当に香港か、と疑いたくなるほどだ。

 

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波光きらめく海上を、ゆっくりと漁船が横切ってゆく。

 

日差しは柔らかく、風もさわやかで、全然暑くない。

 

ここの漁師さんたちは〝棚屋〟と呼ばれる、

 

水上に木とトタンで建てた昔ながらの家に住んでおり、

 

台風の時だけ、別の場所へ避難するのだという。

 

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海沿いの道をゆっくりと歩けば、草いきれがむっとくる。

 

よく春先などに湧き上がる、ソワソワウキウキする衝動。

 

ステテコ一丁のおじいさんが、籐の長椅子に腰かけ、

 

ラジオの京劇を聴きながら居眠りをしている。

 

ベランダで日焼けしたおばさんが洗濯物を干している。

 

道端では犬と猫が仲良く日向ぼっこをしていた。

 

家の中から聞こえる、炒め物をするジューっという音、

 

遠くで母親が子供に何か叫んでいる。

 

子供の頃に味わった、日曜の平和な昼下がりの雰囲気に、

 

どっと懐かしさがこみあげてくる。

 

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いま、この瞬間に在る神と一体となって歩いた。

 

すると、船も、花も、人も、海も、風も、そして自分さえも、

 

〝神〟と同じものだ、として知覚されてくる。

 

乾物を並べるおばさんも、テラスのテーブルを囲み、

 

パンツ一丁でビールを飲んでいるおっちゃん連中も、

 

庭に咲くバラも、木々の葉擦れの音も、そして僕自身も、

 

〝神〟という同一のもの、としてしか認識されなくなる。

 

言い方を変えれば、

 

人や、猫や、バラや、僕というものなど存在せず、

 

ただ〝神〟だけが在る、という風に感覚化されてくる。

 

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やがて、神の中を神自身として歩いている感覚になった。

 

個の自分が消滅してゆく。

 

それは、自分が消えて無くなるというよりもむしろ、

 

みんな一斉にひとつの神、という感覚に近い。

 

ひとつの神だけなので、自分も他者も無い。

 

代わりに、

 

自分や他者を同じ神として認知し始める。

 

真の自己の中に全部あった、みたいな…。

 

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そんな感じで、村の一番端までたどり着いた。

 

そこには、昔の警察署を改装した小さなホテルがあった。

 

瀟洒な建物には客室が9室しかなく、車が入れないので

 

長い階段を崖の上まで自力で登ってゆかねばならない。

 

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そのホテルのカフェで、ブランチを取った。

 

スマホは見ず、ただ、ぼーっと海だけを眺めて過ごす。

 

いま、ここに在る平安が、あまりに強烈すぎて、

 

過去のことや、明日のことには、全く思いが及ばない。

 

過去や未来がない状態…

 

あっ、これが自分も他者もいないということかあ。

 

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それから何やかやして、午後4時頃、自宅へ戻ってきた。

 

洗面所で鏡を見ると、おっ、日焼けしているっ!

 

やっぱり、一人で行ってよかった。

 

今日は、本当に幸せな一日だった。 

 

今夜はぐっすり爆睡できそうだ。

 

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僕らの悲しみ

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連休三日目は、家の近所に住む友人を誘い、

 

90分3000円の韓国焼肉食べ放題に行ってきた。

 

ビュッフェ形式で、好きな肉を好きなだけ取ってきて焼く。

 

まあ、高級カルビみたいな肉はないが、普通に美味い。

 

ジュースやサラダやその他の韓国料理も食べ放題だし、

 

お肉だけで腹いっぱいになるって、すっごく幸せ!

 

友人ともたくさん喋れたし、ああ、楽しかった!

 

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 👆 客同士の間隔は1.5m以上、

   ひとつのテーブルには4人まで   

 

帰りに、この前買うことができなかった夏の服を見に、

 

タイムズスクエアへと向かった。(※自宅の裏)

 

まだ夜の7時半なのに、どの店も閑古鳥が鳴いている。

 

ZARAに白いストレッチポロがあったので買った。

 

ブルックス・ブラザースにはこれといったのが無かった。

 

すこしブラブラしてみたが、閉店している店も多く、

 

田舎のさびれたショッピングモールを歩いているようで、

 

テンションも上がらず、早々に帰宅した。

 

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👆 この年になるとシンプルがなにより 

 

日本のテレビを見ていると、コロナについて、みんなが、

 

ああでもない、こうでもない、と持論を展開している。

 

敵が特定の個人ではなく、未知のウイルスなので、

 

罪悪感を持つことなく、意見も言いやすいのだろう。

 

 

中でも、緊急事態宣言が出されているにもかかわらず、

 

まだ営業しているパチンコ店の行列に並ぶ人たち、

 

お客が来てくれるからと夜も営業し続ける飲み屋、

 

沖縄の離島へと押しかける都心部からの旅行者、

 

など、多くの人たちが自粛に協力しているのに、

 

堂々と抜け道を見つけて楽しもうとする人たちに対して、

 

多くの批判が集中している。

 

 

僕はそういう人達を見ても、あんまり批判的になれない。

 

僕がまだ20代だったら〝うまいこと〟やってたと思うし、

 

去年のデモ、今年のコロナと、政府の強制力が強まり、

 

次々と市民の自由が奪われてゆく香港に在って、

 

批判しても、排除はしない日本人の気質に、

 

大きな優しさ、というか、懐の大きさを感じるのだ。

 

 

それに、うまく言えないのだが、テレビの映像などで、

 

パチンコ店に並ぶ人や、営業を続ける店主を見るにつけ

 

ある種の形容しがたい〝悲しみ〟を感じてしまう。

 

本当はこんなことしたくないんだようー、という、

 

愛を求めて叫んでいるような、かなしみ…。

 

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これらのことから、

 

人って、自分を厳しく律していたり、我慢させていると、

 

他者を批判(攻撃)したくなるんだな、と実感した。

 

クレーマー、パワハラ上司、子供に厳しい母親、など、

 

本当は自分も、

 

こんなことを言っちゃたり、やっちゃったりしたいのに、

 

常に自分を律して、我慢しているものだから、

 

こんなことを堂々と言ったり、やっちゃってる人を見ると、

 

カーッ、となってバシバシ批判したくなってしまう。

 

買った野菜に虫がいたとか、やるべきことをしていない、

 

といった、どうやっても言い返せない〝正義〟のもと、

 

いくらでもうっぷんを晴らすことができる。

 

 

だからと言って、本当の理解が起きていないのに、

 

「そういう人も世界も存在しない、罪はない、神しかない」

 

と、奇跡講座的にやったところで、それは別の意味で、

 

自分を批判しているに過ぎず、まさに徒労である。

 

 

そんなとき、自分という肉体を持っているうちはまだ、

 

世界というベールを通して神を観ているのだから、

 

正攻法で、きちんと自分をケアしてやることが必要だ。

 

 

批判したくなる自分や相手の中に在る〝悲しみ〟を、

 

ちゃんと見てやること、そして、自分やその人は、

 

何を求めて悲しんでいるのかをちゃんと聞いてやること、

 

それが決定的に大切になってくる。

 

そのステップがあってこそ、誰にも罪はない、という、

 

真の理解が起きてくると思うのだ。

 

 

おうちで夢を追う

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昨日、今日、と、家から一歩も出ずに過ごした。

 

別に新型ウィルスが原因で家に籠っている訳ではなく、

 

家にいるのが心地よすぎるので家にいる。

 

 

うだうだと、いつの間にか休暇が終わってしまわないよう

 

リマインダーできちんとスケジュールを設定し、

 

広東語や英語の勉強をしたり、家トレをしたり、

 

実相瞑想をしたり、小説のプロットを作ったり、

 

映画専門チャンネルで映画を観たりして過ごした。

 

 

中でも、笠智衆と八千草薫にハマってしまい、

 

一言もセリフを言わないのに、アップの表情だけで、

 

見ている者に様々な想いを抱かせて、泣かせる。

 

昔の俳優さんって、本当にすごい、とつくづく思う。

 

 

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もっとお金が欲しい、昇進したい、外車に乗りたい

 

歌手になりたい、幸せな結婚がしたい、悟りたい…、

 

など、僕達がこの世界で何かを手に入れたいと思うとき、

 

なんでこれらのものを手に入れたいかと訊かれれば、

 

ほとんどの人は、幸せになりたいから、と答えるだろう。

 

じゃあ〝幸せ〟って一体どんな感覚か、というと、

 

気分がいい、心地がいい、平安と安心の波動、となる。

 

 

そうなのだ。

 

この世で叶えたい夢は人それぞれ無数にあると思うが、

 

どんな夢のゴールも、最終的には、

 

ただ、気分のよさを味わいたい、だけなのだ。

 

逆に言えば、心地よさ、気分のよさを味わえさえすれば、

 

叶える夢は何でもよい、と言える。

 

 

それでは、夢を叶えて味わいたいと切望している、

 

その、気分のよさ、心地よさ、平安な感じ、の正体は何か

 

といえば、神の愛の波動、ハートのエクスタシーの感覚、

 

全てが神の愛で満たされいる感じ、に他ならない。

 

セックスや自慰行為も、神を感じたいがためにする。

 

 

様々な現実世界の成功や幸せを欲しているように見えて

 

実際欲しているのは、神の愛の感覚だったのだ。

 

要するに、夢を叶えることで手に入れたいのは、

 

金でも、地位でも、名誉でもなく〝神〟だった。

 

 

自分だけの夢を叶えても、最後は神を発見する。

 

中には、神を発見するのが怖いから、

 

ずっと夢を追っているだけで叶えない人もいる。

 

しかし、ひとつ言えることは、どんなに抵抗しても、

 

どんなに遠回りしようと、

 

神はここに在り、僕たちを生かし続けている。

 

 

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なので、この世界で自分の夢を叶えたいと思うことは、

 

神からは全く反れていない。

 

この自我の世界を、

 

もっと心地よくしたいということでもない。

 

実際、僕達は〝神〟に出会うために夢を追っているのだ。

 

(まあ、夢を追わずとも、神は今、ここに在るのだけれど)