香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

愛していると言ってやれ!

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自分のことを愛してもいないのに、

 

他人に対して「愛している」というのは、

 

単なる押し付けであり、本物ではない、

 

というアニータの言葉が心に残っている。

 

自分と他人に対する愛情は同じもので、

 

私が自分を愛していれば、他人も同じように、

 

私を愛するようになるだろう、と…。

 

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数年前、沖縄へ行ったとき、

 

幾人かのコース兄弟とランチをしようと

 

とある和食レストランに入り、それぞれが、

 

自分の好きな、なんちゃら御前を頼んだ。

 

 

料理が来て、さあ食べよう、としたとき、

 

ある年配の女性が、隣の若い女性に、

 

「私、少食で食べられないから、半分食べて」

 

と、お寿司を隣の女性に分けていた。

 

また、別の髪の長い女性は、

 

「これあげるから、それひとつちょうだい」

 

と、さっきの若い女性に、

 

料理のとりかえっこを提案していた。

 

そして、若い女性は「うん、いいよ、いいよ」

 

と、相手の要求を全て受けているのだった。

 

 

お寿司をあげた女性にしてみれば、

 

好意からそうしたのかもしれないし、

 

髪の長い女性にしてみれば、

 

ちょっと、他の料理を味わってみたかった

 

だけなのかもしれない。

 

 

しかし、その時の僕は、年配の女性が、

 

食べ物を残すことへの罪悪感を、

 

隣りの女性に押し付けているようにも見え、

 

とても不快な気分になった。

 

なぜなら、

 

「これ食べて」と、相手の皿へ移した

 

量が尋常じゃなかったからだ。

 

私の要らないもの全部あげる、

 

みたいな感じだった。

 

 

また、料理を交換しよう、と言った女性も、

 

自分が食べたくないものを、

 

自分が欲しいものと交換しようとしている

 

ように見え、これにも違和感を感じた。

 

なぜなら、

 

普通、本当に自分が食べたいものだったら、

 

相手にあげよう、などとは思わないからだ。

 

 

「イヤなら無理に食べなくてもいいんだよ!」

 

と、僕がその若い女性に言うと、

 

「私、残飯処理班て言われてるんですよ」

 

と言って、彼女はおどけたように笑った。

 

 

いや、

 

彼女は本当にそうしたかったのかもしれない。

 

みんなに悪気などないのも分かっている。

 

でもどこか、料理を交換しながら、無意識に、

 

罪悪感の交換をやっているようでイヤだった。

 

 

それなのに、食事の間、

 

赦しについてシェアし合ったりして、

 

なんかおかしい、と思ったのを覚えている。

 

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自分の事をちゃんと愛してやることとは、

 

なんでそんなに怖いのか、なんでイヤなのか、

 

やりたい事は何で、やりたくない事は何なのか

 

本当はどうしたいかを自分に聞いて、

 

それらを全て肯定してやることだ。

 

そして何よりも自分を大切に扱うことである。

 

イヤなことはイヤだ、とはっきりと言い、

 

こんなことをしたいな、こうだったらいいな、

 

という想いを、100%受け容れてやることだ。

 

現実にこういう問題があるし、やっぱ無理だ、

 

という自分へのダメ出しなんか必要ない。

 

誰も実現させろ、なんて言ってないのだから。

 

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今回、何をさておき、自分を愛しなさい、

 

先ずは自分の内側を愛で満たしなさい、

 

というアニータの言葉を読んだ時、なぜか、

 

このレストランでの出来事が思い出された。

 

 

当時の自分も、違和感を感じたのなら、

 

もっと突っ込んでシェアすればよかったのに、

 

場の雰囲気を壊したくない、というのもあり、

 

「そんなことないよ。大丈夫だよ」

 

と言われれば、それ以上、何も言えなかった。

 

 

それに、

 

彼女たちと同じような罪悪感の交換を、

 

僕も会社とかでやっていたことにも気づいた。

 

料理か仕事かの違いだけで、元ネタは同じだ。

 

 

しかし今後、背後の全体で生きるようになると

 

同じ料理の交換をしあったとしても、それは、

 

愛の交歓になる。

 

愛は常に、自分が先手なのだ。

 

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まるまる奇跡講座

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自分の本質はスピリットである神の子であり、

 

完璧に安全で、無条件に愛され、

 

全てが受け入れられている無限の存在である、

 

という自覚が深まるにつれ、

 

もう、無限の自己(神と同じ存在である自己)

 

以外では存在できなくなってきている。

 

 

それは、僕にとって、

 

背後の無限の空間(天国/愛の中心/ハート)

 

だけで存在することを意味している。

 

天国や〝我が家〟は特定の場所ではなく、

 

存在の在り方そのものだったのだ。

 

なので、今この瞬間、

 

自分はすでに我が家へ帰っており、

 

優しい父も、頼れる兄貴も、

 

決して離れることなく、

 

自分の背後をついてくる。

 

 

この、常に父や兄と一緒にいるという感覚が、

 

僕に心からの安心感を与え、愛の流れの中で、

 

自分の完全さを思い出させてくれる。

 

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最初は、瞑想の時だけ垣間見れていた世界が

 

今ではもう、

 

〝そっち〟こそが真の現実となった。

 

 

例えば、

 

あの人があんなこと言ってるぞ、とか、

 

みんなの前で恥かいて、傷ついたやろ、とか、

 

ほら、過去に言われたあの一言を思い出せ、

 

と、全力でシュワシュワ上がってくる

 

エゴのささやきさえももう信じることはない。

 

なぜなら、背後の無限の存在である自分が、

 

そんな事など思うはずはないので、

 

それは全部エゴのウソだと看破できてしまう。

 

 

そうすると、やがて、

 

前方に見えている〝わたしのスクリーン〟が、

 

優しい映像に置き換えられてゆく。

 

それは起きている出来事とは一切関係がなく、

 

エゴが、最悪だと解釈するような事を見ても、

 

やっぱり、愛でしかなく、優しい。

 

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自分が素晴らしい愛の存在だ、と、

 

自分で自分を認められるようになってくると、

 

夢の現実においては、自分を真の存在として、

 

大切に扱えるようになる。

 

良い感じのするものに注意を払うようになり、

 

背後に流れる大きな歓び(愛)の流れに

 

身を任せて動くようになる。

 

そして、愛以外のささやきには、

 

はっきりと、ノー、と言える。

 

 

そうやって今の自分の見え方を整理しながら、

 

ぼんやり佇む、雨降る土曜の午後であった。

 

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泣きながら平安

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↑ ランニングマシーンにアクリル板が…。

 

 

今日は、仕事帰りにジムで自主トレをした。

 

トレッドミルで20分ほどダラダラ走りをし、

 

それからバランスボールで腹筋を鍛えた。

 

まだ、筋肉痛が残っているため、

 

本格的な高重量のトレはしなかった。

 

 

ジムは仕事帰りの人達で賑わっていた。

 

こうして少しずつ、

 

日常が取り戻されつつある香港だが、

 

やはり、国境封鎖だけは続いている。

 

これはコロナの影響と言うよりも、

 

外国のジャーナリストの入国を制限したり、

 

反中派を国外逃亡させないための、

 

政治的な思惑が潜んでいるようだ。

 

 

ジムで軽く身体を動かしながら、

 

真の自己が存在する無限の居場所で、

 

ただ愛の流れに身を任せていた。

 

今、この瞬間に在る平安がこみ上げてくる。

 

エゴのささやきもない。

 

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僕の中で、ここのところ、

 

平安に対する在り方が変化してきている。

 

今日のような、何の葛藤も起きない、

 

心穏やかな時だけが平安なのではなく、

 

イラついている時も、ドキドキしている時も、

 

やっぱり、自分は平安なのだと解かっている。

 

 

どういうことかと言うと、例えば、

 

緊張で心がちょちょ舞っていたら、

 

思い切り自分にドキドキさせてやる。

 

悲しくて心が塞ぎこんでいるのなら、

 

悲しむことをちゃんと自分に許してやる。

 

何かに失敗して後悔していたら、

 

とことん気の済むまで落ち込ませてやる。

 

 

本当の感情を封じ込めるよりも、

 

それらの感情が過ぎ去るまで、

 

隠さずに、感じることを許してやること、

 

ちゃんと受け入れてやった上で、

 

背後にある愛の流れへと引き渡す。

 

それが、

 

今の僕の平安に対する在り方であり、

 

自分を責めない為のスタンスとなっている。

 

 

この感情をどうにかしよう、

 

とするよりも、ただ優しく寄り添う。

 

すると、それらの想いは、

 

兄貴(量子コンピューター)に引き取られ、

 

やがて、ハートの歓びへと変換されて、

 

夢のスクリーンに反映されてくる。

 

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神の愛のフォースは、

 

背後(内側)を通って、空間の裏側から、

 

押し出されてくるのだ。