神への絶叫から一夜明けた今日、
僕の世界は一変しつつある。
会う人、見る物、起こる出来事への意味づけが、
神様ひとつだけになっていく。
たとえば、
東京出身のAさんは今年40歳になる課長さんで、、
小学生の息子がいるがバツイチで、
温厚な人だが、ときどきキレるので要注意、とか、
このワインはチリ産のカルメネーレで、
あのカベルネのワインより濃厚だから好き、など…。
これを、あらゆる人、物、事柄にやっている。
よくまあ、こんなしんどいことやってたな、と思う。
ほんと、狂ってるよ。
ゆうべ絶叫したおかげで、それら全ての意味づけが、
神様ひとつだけに置き換わってゆく。
なんだ、ぜんぶ神様じゃん。
この意味づけひとつだけでいいんじゃん。
単純でスワットな僕にはこちらのほうがラクだ。
そうやって、今日一日見るもの全部に、
うおおおおー、かみさまああー。
きゃああぁー、かみのこおおおー。
ううーっ、神いいーっ。
とやっていると、猛烈な勢いで神が押し寄せて来た。
とてつもない愛と悦びに襲われる。
これはもう、やってくる、どころではない。襲撃だ。
俺、もうこれ以外の意味づけはいらないわあ、と思う。
今日、早退して、あの〝水虫っぽいの〟を診てもらいに
再度ケネスホー先生を訪ねた。
ケリーが6時に予約を入れてくれていたが、少し遅れて
入ったため、順番が後回しになり、かなり待たされた。
その間、ずっと明け渡しをしながら待っていたが、ふと、
神の子の自分がこんなところで何やってるんだろう、
という感覚にとらわれた。何と言えばいいのだろう。
「神の子が水虫になんかなるわけないじゃん、
神様という意味しかないのなら病気なんかないよね。」
「あっ、俺もう、これ自分で治せるわ。ていうか、
もとからないし…。」
という、何の根拠もない自信と確信が湧いてきた。
それで、なんだか待つのもアホくさくなり、
そそくさと家へ戻ってきたのだった。
なんか、去年の冬の沖縄リトリの時、ハレ師匠から、
「本当は、それ全部神でした。」と言われたときに、
なぜ突然号泣してしまったのか、いま分かった。
もちろん、赦しは来る。
でも、もう兄弟のことを、すでに神の国で安らいでいる
神の子としてしか見れなくなっている。
相手がどんなにきついパフォーマンスを
仕掛けてきたとしても、僕のためにわざとやってくれて
いるようにしか思えないのだ。
「兄弟!はやく終わらせて、こっから出て行けよ。」
と、兄弟がわざわざ嫌な役を買って出てくれている。
だって、嫌な役をやっている限り、
相手の兄弟は終わらせられないんだよ。
しかし、完璧な兄弟はそんなの百も承知で、
やってくれているのだ。
だから、俺が終わらせる必要がある。
苦手な兄弟こそ愛だったのだ。
もう感謝しかない。
頭が下がりっぱなし。