↑7年持つといわれる〝ナンチャラ加工〟されたバラ
夢の世界がめまぐるしく変化している僕である。
今日も、街を歩いている人たちを見て、この人たちが
実際に存在しているようにはどうしても思えなくて、
なんでこんなにも平面的で薄いのだろう、と感じた。
ひょっとして、ここには誰もいないのではないか、
自分はただ影を見ているに過ぎないのではないか、と
知ってはいけないことを知ってしまった時のような、
ちょっぴり、そら恐ろしい気持ちに襲われてしまった。
視界に見えている時しかその人は存在しない、と、
量子の世界では言ったりするが、それ以上に、
視界に見えている時でさえその人は存在していない
ように感覚化されてしまっている。
存在していない物に何かを理解してもらおうとしたり、
お前のせいだ、と怒りをぶつけても意味がない。
それは結局自分の中だけの怒りだったのだな、と…。
そういう世界が消えてゆく感覚とは矛盾するのだが、
聖霊兄貴が僕である、というスタンスでいると、
〝愛〟がずんずん満ち溢れてくる。
誰を見ても、何をしてても、愛おしくて仕方がない。
攻撃しているように見えている人であっても、
悲しんでいるように見えている人であっても、
怒りにさいなまれているように見えている人でさえ、
一様に〝慈愛〟としてしか受け入れられない。
もっと別のピッタリな表現があればいいのだが、
言語では〝愛〟と表現するほかないのがもどかしい。
結局、唯一自分にできることは、
エゴか聖霊兄貴か、どちらを選択するか、
ただそれだけなのだと観念した途端、
イッキに爆発的な〝愛〟が湧き上がってきた。
この愛の中にいると、相手が何をしてようと、
そこに咎めは無く、自動的に赦しが起こってしまう。
このように、ただ〝愛〟〝愛〟と言っていても、
何も伝わらないので、もう少し説明してみる。
今の僕には、この外界の現実世界が、
自分の心の中と同じもの、として映っていて、
外界の世界に登場してくる他者はみな、
自分の心の中を象徴したものと捉らえられている。
なので、心の中が聖霊で満たされた瞬間、
聖霊の〝愛〟で外界も満たされる。
よって、どんな状況を見ても、どんな人を見ても、
それが愛の表現としてしか顕われてこなくなるのだ。
聖霊をど真ん中に置いて24時間過ごすことが、
イコール赦しとなり奇跡となっている。
それは例えば、
死の床から奇跡の生還を果たした人間、または、
あと幾ばくかでこの世を去ると分かっている人間が、
周囲の人に対して感じる、全てをよしとする感覚、
慈しみや、感謝や、優しさの感覚に似ている。
もうすぐここから永遠にオサラバする人間が、
誰かから不当な扱いを受けたからと言って、
何を怒ることがあるのだろう、そんな感じである。
世界をエゴ目線ではなく、聖霊目線から見れば、
世界は否定ではなく、肯定で満たされるのだ。
別の言い方をすれば、それは、
僕の心を代表して顕われて来てくれている兄弟たちを
エゴなんかに貶めてなるものか、という覚悟、
絶対に愛としてしか扱わない、という決意でもある。
そんなこんなで、僕の周囲が一変してしまった。
人や景色が気持ち悪いくらい優しくなってしまった。
見え方が変わった、なんて生易しいものではない。
本当に、人が、別人のように優しく変わるのだ。
最初はツッケンドンだった人が、5分ほど話をすると
みるみる穏やかな笑顔があふれだしてくる。
僕の場合、
一瞥体験とか、垣間見体験とか、悟り体験、とか、
そういう一気に〝イって〟しまうのではなく、
こうやってめまぐるしく変化しながら進んでゆく。
日常に根差している分、ブレないし確固としている。
とにかく、誰を見ても涙が出るほど愛おしいのである。
東京から戻って以降、本当になんかおかしい。
もう、これは、完全に、
帰還への軌道に乗ってしまったと言わざるを得ない。