↑毎朝の通勤途中、川面に反射した陽光が、
高架のコンクリートに映え、とってもきれい。
今日は〝全托〟とは真逆のことを書く。
これまでも述べてきたが〝真の全托感〟というのは、
あくまで、自然発生的に起こるもので、
全托で行こう、と実践してそうなるものではないし、
頭で理解しているからOKでもない。
それが来るまではやはり、
粛々と赦しを行なう必要がある。
そのなかで、もし、最短距離で、
永遠に夢の世界から去ろうときめたのであれば、
今、やりたいと思っている事や、やり残している事、
また反対に、まだ解決できていない事柄などは、
肉体レベルで、きちんと終わらせておいた方がいい、
という話である。
小さい頃、母方の大叔母が、死の床に伏していた時、
自分の家族や、見舞いに来た一人一人に対して、
「本当にあの時は意地悪をして本当にごめんな。」
「あの時、ひどいことを言って悪かった。赦してな。」
「あの時は辛い思いさせた。済まんかった。」
と、涙ながらに謝罪し、持っている現金や貴金属を、
一人一人に渡していたのを今でも鮮明に覚えている。
うちの母も、大きなヒスイの指輪と、
友禅の和服をもらっていた。
大きな農家に嫁いだ大叔母は、
嫁をいびり抜き、おしゅうとめさんをイジめ抜き、
少しでも大叔母に立てつけば10倍返しで来るような、
それはもうきつい人で、親戚の間でも有名だった。
そんな人が、死の淵にあって、どうして、皆に謝罪し、
現金や貴金属を分け与えたりしたのだろう。
それは、死を前にして、
まだ生きているうちに、ちゃんと〝業〟を清算し、
プラマイゼロにしておきたい、という、
無意識からの行動だった、と推測する。
それで、何が言いたいかというと、
歌いたい、絵を描きたい、セドナに行きたい、
または、あの人にもう一度会って和解したい、
など、父が待つ故郷へ帰還する前に、
もし、やり残している事があるのであれば、
僕達はまだ肉体を持っているので、
ただ柱の陰でチマチマ赦して明け渡すより、
形のレベルで行動し、貸し借りチャラにして、
さっさと終わらせた方が手っ取り早い、ということだ。
実際に会って謝るとか、行きたい場所へ行くとか、
償うものは償い、果たすべき責任は果たすことが、
幻想の罪悪感を確実に取り消す一番の方法だ。
だって、
いくら、神しかない、世界なんて存在しない、
聖霊を感じているだけで赦していることになるんだ、
と言ったって、無意識(←ここ重要!)の心が、
それを信じていなければ、何をやったって無駄である。
なぜなら〝全托状態になること〟が起こるまでは、
無意識の心が聖霊を選ぶことを拒否するからだ。
それが〝罪悪感のカス〟となり、結局、
借金返済のために、再び舞い戻ってくることになる。
それであれば、まだまだ時間はあるのだから、
実際に行動して取り消した方がスッキリする。
例えば、
自分の子供を立派に育て上げる、借りたものは返す、
やりかけた仕事をちゃんと最後まで終わらせる、
好きな人と最後まできちっと添い遂げる、
逆に、情で付き合っていた関係を清算し、
新たに人生をやり直す、などなど…、
起きていることは、自分の心の写し絵でもあり、
自分が何を手放さないかを見せてくれる象徴なので、
それらをちゃんとやり遂げ、終わらせることは、
もっとも確実な赦しであり、明け渡しとなる。
僕の場合、
実際に、相手がどう思っているかは別として、
罪悪感を感じるような人は今のところいない。
うーん、ただ強いて言えば『ジンジャータウン』は、
ちゃんと一冊の本にしたいなあ、というのはある。
なので、それに関しては、行動に移して行くと思う。
というわけで、またまたまた三連休!
今回は、中国への返還記念日である。
今回の連休は、マッサージに行ったり、TVを観たり、
クラブで騒いだり、やりたいことをして過ごそうっと。