↑今回の上海出張で泊まったオシャレホテル。
ベッドの上にあるお膳の意味が分からない。
意味づけを放棄するとはどういうことか、
であるが、それには、まず、僕たちがいかに、
何も理解していないかを知る必要がある。
例えば、明日の食事会はどこを予約すればいいか、
Aさんはワインが好きで、Bさんは日本酒が好き、
7時集合がベストだが、Cさんは8時まで仕事だ。
または、
A社とB社、どちらに就職したほうがいいだろう、
A社の方が給料はいいが、やりがいではB社だし、
でも、A社は家に近いから通勤がラクだし…。
人生の決断から、スーパーで何を買うかまで、
僕達は、どの選択が自分にとって最善かを、
毎瞬、毎瞬、考え続けながら行動している。
しかし、よくよく考えてみると、
どの選択も最善でないことは容易に分かる。
なぜなら、必ずどこかに矛盾点が出てくるからだ。
そして、このような〝最善の選択〟をしようとする
衝動の底辺には〝自分が全てコントロールしたい〟
という〝父への抵抗〟が潜んでいる。
例えば、歌手になりたい、医者や弁護士になりたい、
というような、人生をかけて実現させる大きな夢から、
海外旅行へ行きたい、結婚したい、猫を飼いたい、
といった、日常レベルの小さな欲望まで、
僕たちはいくつもの〝夢〟(別名:欲望)を抱いている。
しかし、その夢(別名:欲望)を詳細に精査してみると、
それぞれの夢の間に矛盾が生じていることに気づく。
もう僕は、かなりのパーセンテージで、
なりたい自分というものが皆無になってきているが、
例を挙げて説明するために、敢えて、
昔抱いていた、叶えたい夢を列挙してみると、
まず、僕の夢①として、
『ジンジャー・タウン』を出版したい。
その本がベストセラーになってほしいし、
外国でも出版されてほしいし、二冊目も出したいし、
世界中、サイン会や講演会に飛び回りたいし、
たむらしげる氏に挿絵を描いてもらいたいし、
最後は作家として創作に専念して生きていきたい。
次に、僕の夢②として、
香港で、今と同じ、安定した暮らしを送りたい。
会社に属し、家賃を会社に出してもらいながら、
安全で快適な暮らしを維持してゆきたい。
また、僕の夢③として、
両親が亡くなった後は、大阪の実家の家で、
ゆったり悠々自適に暮らしたい。
それぞれの夢を別々に語っている時には、
何の違和感も感じなかったのに、
こうして列挙してみると、
夢同士が互いに矛盾し合っていることに気づく。
作家として世界を飛び回りたいと思っている一方で、
実家で悠々自適に暮らしたいってどういうこと?
第一、実家にいたら香港で暮らせないし…。
みなさんも、一度やってみると解かると思うが、
絶対に、互いの夢の間に矛盾点が生じてくるのだ。
よく、引き寄せとかで、叶えたい夢がいくつもあると、
結局エネルギーが分散し、どの夢も叶わない
などと言ったりするが、まあ、当然と言えば当然だ。
いくつもの矛盾する欲望が互いに打ち消し合う状態で
夢なんか、叶うわけがなかったのだ。
なので、昭和のスポコンドラマのように、
他の欲望を全て放棄し〝決めたこの道まっしぐら〟
みたいな生き方は、ある意味、正しいと言える。
要するに何が言いたいかというと、個の自分は、
自分にとって何が最善かを全く理解していない。
そのことをまず、マジマジと認識してみること。
そこから、無意味な考え(意味づけ)を手放すための
〝納得〟(別名、諦め)が芽生えてくると思うのだ。