ちょっと前に、ヴィクトール・フランクルの事を書いたが
彼の哲学の中に、今この瞬間(👈ここ大事!)
どんないいものを差し出せるかを考えなさい、
そして、すぐにそれを差し出しなさい、というのがある。
そうすることで、
人生の砂時計の底にたまる砂の質がよくなり、
一粒一粒によき意味を持たせることができる。
その砂時計が、死を以って、くるりとひっくり返り、
生まれ変わりによって新たな人生が始まる時、
それは大きな愛の砂粒となって、上から下へと、
再び今という時空を通って、人生の砂時計の中を
すり落ちてゆくのだ、と…。
いきつけの飲み屋で、いつも他の客を気にしながら、
カラオケでどの曲を歌うかを決める客がいたのだ。
本当は最新のアニソンをガンガン歌いたいのだが
今日の客は50代が多いので、ドリカムにしとく、
みたいな感じの選曲をしていた。
彼女とは、たまたまカウンターで隣り合わせ、
なかなか曲を決めずに、スマホで何かを調べてるので
何で歌わないの、と聞いたら、
いま、ここにいる年齢層の客たちが好きそうな曲を
スマホで調べているのだと答えた。
周囲に気を遣っている、というよりも、
自分が、場違いな歌を歌ってしまうことで、
ドン引きされ、何だこいつと思われるのが嫌なようだ。
一瞬、うざっ、と思った。
金払ってるんだから、好きな歌を歌えばいいのだ。
第一、自意識過剰である。
お前がどんな曲を歌おうと、周囲は気にもしていない。
と、そのときなぜか、フランクルが言った、今この瞬間、
どんないいものを差し出せるか考えなさい、
という言葉が脳裏をよぎった。
「よっしゃ。ほんなら、俺がちゃんと聞いといたるから、
好きな歌を思い切り歌え!他の誰が拍手せんでも、
俺が拍手したるから、安心して、ガンガン歌え!」
酔いも手伝ってか、批判的な思いとは裏腹に、
思ってもいない言葉が、口を衝いて出てきた。
その言葉を聞いた彼女の顔がぱっと明るくなった。
よいものを差し出す、とはこういうことなんだ、
というのが、このとき、
ぼんやりとだが、解かった気がした。
少し前に、兄弟に信を置く、という題で書いた、
学生たち胡坐でタバコ事件、も、
どんないいものを差し出せるか、という意識があれば、
人生という砂粒の質が変化して、
その学生たちと、友達になれていたかもしれない。
そして、僕達が生まれ変わり、反転した砂時計の中で
砂粒が再度中心部を通る時、生まれ変わった彼らと
大親友になれているかもしれない。
いや、ともすれば、幻想の関係性自体が、
一瞬のうちに削除されてしまったかもしれないのだ。
そんな感じで、兄弟にどんないいものを差し出せるか、
をテーマに2025年は過ごしてみたいと思っている。