今日は、トレーナーとのセッションの日だったので、
朝から、焼くだけ冷凍餃子とゆで卵三つをしっかり食べ、
筋トレに臨んだお陰で、スタミナ切れすることもなく、
120キロのスクワットやダンベルプレスをこなせた。
今週、僕が日本へ里帰りしてしまうため、
今月のパーソナルトレーニングも今日が最後、
ということで、余計に気合を入れて頑張った。
筋トレを終え、ヘロヘロになってアパートへ戻ると、
エレベーターが二台とも全て止まっていた。
おい、マジかっ!
守衛のおじさんが無言で階段を指さしている。
仕方がないので、非常階段を22階まで歩いて上る。
筋トレの延長線だと思い、一段飛ばしで上ってゆく。
ああ、明日の筋肉痛が楽しみだ!
誰かを赦すとき、その人が何かをしたからではなく、
実はなにもしなかったからこそ赦す、とよく言われるが、
何もしなかったどころか、何もなかった、という話である。
ただの想いが勝手にシュワシュワと、
三ツ矢サイダーの泡のように立ち上がり、
泡ぶくを〝根暗な山田さん〟とか〝優しい鈴木さん〟
として認識しているだけで、そこには誰もいない。
そういう意味で、赦すというのは、
その何も無いところに立ち上がってくる思考を、
ただ神にささげてゆくプロセスでもある。
なので、
夢の世界や、存在すらしない他人を変える必要はない。
風景も、感情も、見えているまま、感じているままでいい。
家族も、ペットも、同僚も、愛車も、全部捏造されている。
それよりも、自分達が唯一存在しているのは神の中だ。
その真実を思い出し、あらゆる物事や、家族や、同僚や、
仕事上のトラブル、金銭問題、に対し、
それが夢で、自分は神の内なる我が家にいながら、
そこから追放された夢を見ているに過ぎない、
という事実を当て嵌めてゆくのだ。
そうやって、
夢を自覚することで、愛の存在を自覚することとなり、
今度は、神を反映させた夢を見ることになる。
要するに、日々立ち上がる日常の出来事に於いて、
心のセンサーを概念や個人の解釈の方ではなく、
神の方に向ける訓練をすることが大切になってくる。
なぜなら、
習慣づいている方を、心は実在と見なすからである。
心(意志)が、いま、ここにある神に気づき、
その何とも形容しがたい〝神の愛の感覚〟の中に、
真実の自己を見て、全部が神であり自分だったと気づく。
もう、本当に神に気づくだけ。