自分も長年そうだったから分かるのだが、
スピの探究者は必ず〝誰か〟に依存している。
言わば、新興宗教や占いのソフト版である。
奇跡講座なら、ワプニック氏やデイヴィッド氏、
非二元なら、小和田菜穂さんや阿部敏郎さん、
統合系なら、あやこさんや並木さん、その他、
ハッピーちゃんやバシャールやエッグタルトなど
これだ、と思う人のコミュニティーに参加し、
苦しみからの解放を図ろうとする。
それでもだめなら、また新しい誰かに期待する。
奇跡講座で操縦席を聖霊に明け渡す、と言うが、
誰かのスピ(奇跡講座含む)に執心した時点で、
操縦席をその誰かに明け渡している。
誰かに明け渡すくらいならいっそのこと、
自分が操縦席に座っていた方がまだマシである。
操縦席に座るのが自分であれ聖霊であれ、
そこに誰かの存在がある限りカタはつかない。
更に言えば本当は神に還りたいとも思ってない。
もっと言えば、操縦席なんてあるのか?
全てを受け入れます、すでに赦されている、
とか言いながらも、終わらせる気など更々ない。
父が待つ故郷に永遠に帰還することより、
赦しや、統合や、瞑想や、周波数など、
何かを実践することで安心感を保っている。
その証拠に、今この瞬間にカタがついて、
肉体を脱いで帰還していいです、となったら、
絶対、ちょっと待って、となるはずだからである。
どんなに、もうこの夢の苦しみを終わらせたい、
と思っていても、今すぐ、は困るのだ。
なぜなら、
苦しみを終わらせるそのタイミングさえも、
〝自分〟で決めたい、と思っているからだ。
それだけでも、聖霊に全てを委ねます、
と言っている自分がいかにウソかがわかる。
そして、これは僕も経験済みなのだが、
勉強会やリトリートに参加する密かな目的は、
その会が終わった後の、そこで知り合った人達との
「私は昔、こんなことがあって、ああで、こうで…」
と、身の上話を喋りあうことだったりする。
お喋り会やシェア会、と称しながらも、
本当は〝ちょっと聞いてよ奥さん会〟となっている。
真の目的が、今すぐ探求を終わらせることではなく、
何の利害関係もない見知らぬ人との身の上話ツアー、
なので、いくらやっても、結局迷うことになる。
⇩ うわっ、なっつかしーい、この面々
大大大嫌いな旦那なのなら別れればいい。
胃が痛くなるような会社なら辞めればいい。
母親がそんなに憎いのなら大喧嘩すればいい。
世界は幻想だ、罪はない、何も起こってはいない
のであればできるはずだ。
これが本当の意味での〝実践〟なのに、
内面を変えれば世界が変わる、的な実践で、
実際には何も行動を起こさずに、
市原悦子よろしく、柱の陰からそっと覗きつつ
旦那や会社や母親が愛に変わってほしいと願う。
(赦しをその手段にしてしまうこともある)
本当は、大嫌いで、胃が痛くて、憎くて、
それですでに問題なく赦されている。
自分を変えるのではなく、自分の中に、
変えるべき自分なんかいないことを
はっきりさせるために、自分へ向かうのだ。
外側にいるほかの誰かを探す、のではなく…。
「あなただって色んな人に依存してきたじゃない」
と言われそうだが、だからこそ、である。
このブログを読んで下さっている方々はすでに、
一通りのスピを渡り歩いてこられ、
お腹いっぱい(頭いっぱい)の方達だと思うので
もうここらで店じまいをしてみませんか、
という話である。
香港にいる間にインスタライブする予定です。
鍵アカなので、フォロー願います(@hoshitani)