香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

目の前にあるものをしっかり見なさい

 

 

夕暮れ時、家路を急ぐ会社員の人々を目にした瞬間、

 

木々の葉擦れの音が聞こえた瞬間、

 

スタバで淹れたての珈琲を味わった瞬間、

 

パン屋さんからパンを焼く匂いが漂ってきた瞬間、

 

外に出て、肌に初夏の風の爽やかさを感じた瞬間、

 

など、あらゆる瞬間に、何だかすごく有り難いような、

 

優しさに包まれるような、安心しきったような、

 

それでいて少し切ないような、何とも言えない、

 

〝好き〟と〝ありがとう〟の感覚があふれ出してくる。

 

この愛の感覚は、誰かが何かをしているから、とか、

 

好きな音楽が流れてきたから、とか、

 

この食べ物がすごく美味しかったから、というような、

 

現実の出来事の結果とは全く関係がなく、

 

何かを認識した瞬間に即行で〝法悦〟なのだった。

 

なんていうか、裏に流れている〝そのもの〟の光が、

 

現実のスクリーンに透けて、こちらへ向かって、

 

放たれてくる感じなのである。

 

 

思い返してみると、この愛だけになるような感覚は、

 

ぼーっと、リラックスしている時に起こっている。

 

会社で、あくせく何かやっている時や、

 

日本語学校ですったもんだしていた4月の時期には、

 

いくら〝そうなろう〟としてもだめだった。

 

たぶん、解釈の中に深く入っている時には、

 

〝そのもの〟から離れている状態にあるのだと思う。

 

 

現実の出来事に深く入りこんでいる時というのは、

 

意識の矢印が、自分から世界側に強く向いていて、

 

俗にいう〝外向き〟になっている状態なのだ。

 

逆に、

 

無条件の有り難さ=宇宙そのもの、みたいな時は、

 

意識の矢印が、現実のスクリーン側(世界側)から、

 

自分へと向かっているような感じの時なので、

 

全受容で世界を受け入れている状態にあると言える。

 

 

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とはいっても、

 

家族と暮らしていたり、仕事とかをしていると、

 

どうしても、意識の矢印が、まるで沼へ落ちるように、

 

眼前で起こっている物事の中へと落ちて行きがちだ。

 

そんな時、はっと気づいて、どっこらしょっ、と、

 

意識の矢印の方向を自分の方へ戻す(全受容)

 

だけでも、見え方を切り替えられる、と思うのだ。

 

 

幸い今の僕は、色々将来の事を考えたりはするが、

 

総体的には平安なので、今この瞬間を受け入れて、

 

〝ここ〟に留まっていることができているが、

 

ひとたび、人生を脅かす不安な出来事が起こると、

 

どうなるかわからない。

 

だから、何があっても大丈夫でいられるように、

 

今のうちに、神を定着させていこうと思っている。