夕暮れ時、家路を急ぐ会社員の人々を目にした瞬間、
木々の葉擦れの音が聞こえた瞬間、
スタバで淹れたての珈琲を味わった瞬間、
パン屋さんからパンを焼く匂いが漂ってきた瞬間、
外に出て、肌に初夏の風の爽やかさを感じた瞬間、
など、あらゆる瞬間に、何だかすごく有り難いような、
優しさに包まれるような、安心しきったような、
それでいて少し切ないような、何とも言えない、
〝好き〟と〝ありがとう〟の感覚があふれ出してくる。
この愛の感覚は、誰かが何かをしているから、とか、
好きな音楽が流れてきたから、とか、
この食べ物がすごく美味しかったから、というような、
現実の出来事の結果とは全く関係がなく、
何かを認識した瞬間に即行で〝法悦〟なのだった。
なんていうか、裏に流れている〝そのもの〟の光が、
現実のスクリーンに透けて、こちらへ向かって、
放たれてくる感じなのである。
思い返してみると、この愛だけになるような感覚は、
ぼーっと、リラックスしている時に起こっている。
会社で、あくせく何かやっている時や、
日本語学校ですったもんだしていた4月の時期には、
いくら〝そうなろう〟としてもだめだった。
たぶん、解釈の中に深く入っている時には、
〝そのもの〟から離れている状態にあるのだと思う。
現実の出来事に深く入りこんでいる時というのは、
意識の矢印が、自分から世界側に強く向いていて、
俗にいう〝外向き〟になっている状態なのだ。
逆に、
無条件の有り難さ=宇宙そのもの、みたいな時は、
意識の矢印が、現実のスクリーン側(世界側)から、
自分へと向かっているような感じの時なので、
全受容で世界を受け入れている状態にあると言える。
とはいっても、
家族と暮らしていたり、仕事とかをしていると、
どうしても、意識の矢印が、まるで沼へ落ちるように、
眼前で起こっている物事の中へと落ちて行きがちだ。
そんな時、はっと気づいて、どっこらしょっ、と、
意識の矢印の方向を自分の方へ戻す(全受容)
だけでも、見え方を切り替えられる、と思うのだ。
幸い今の僕は、色々将来の事を考えたりはするが、
総体的には平安なので、今この瞬間を受け入れて、
〝ここ〟に留まっていることができているが、
ひとたび、人生を脅かす不安な出来事が起こると、
どうなるかわからない。
だから、何があっても大丈夫でいられるように、
今のうちに、神を定着させていこうと思っている。