香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

動く塊り

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毎度おなじみ、フィリピンのスービックに来ている。

 

今回は、聖霊部長(元コンババ)と顧問の三人旅だ。

 

ホテルも、レストラン街も、

 

全て工場から歩いていける距離にあるので、

 

仕事帰りに徒歩で食事へ行き、バーで少し飲んでから、

 

また徒歩でホテルへ帰る。

 

 

顧問は、会うたびに、ワインをしこたま御馳走してくれるし、

 

聖霊部長は、最近、まるで世話焼き女房のように、

 

いつも細々とした仕事のフォローをしてくれる。

 

工場の人たちも、みんな、陽気で、優しい。

 

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↑ 夜の海岸でひとり、静かに瞑想をした 

 

僕の場合、同僚から、

 

ここ間違ってますよ、とか、ここはこうした方がいいですよ、

 

というアドバイスを受けると〝指摘された〟とは思わず、

 

〝助けてもらった〟と、感謝の気持ちで一杯になる。

 

最近は 「ありがとうございました。助かりました。」を、

 

一日何回も言っているような気がする。

 

 

それと、現実生活の諸問題についても、

 

原因に戻った赦しを経て、ひとたび聖霊を選んだら、

 

基本、自分であれこれやらず、聖霊に任せている。

 

そして、僕にとっての聖霊に任せる、とは、

 

兄弟に任せる、とほぼ同義語と言っていい。

 

なにか、直感的な導きで動くときもあるが、

 

大抵は、周囲の兄弟を通して導かれることが多い。

 

たとえ、兄弟から差し出されたものが、

 

心地のよいものではないものだったとしても、

 

そのことを、ある時はちゃんと兄弟(聖霊)に表現したり、

 

またある時は心の中を見つめながら、

 

心地悪さを直視して、原因まで戻った赦しをする。

 

それでも、最近は、

 

前回の記事で書いた〝プロテインバー代金返却事件〟

 

のようなことは少なくなり、

 

どう考えてもあいつが悪いと見えるようなことでも、

 

それをどうするかは自分の仕事ではなく、

 

聖霊兄貴に任せればいい、と一歩退けるようになった。

 

 

一日を兄弟(聖霊)に任せて過ごしていると、

 

大いに助けられることもあるし、また逆に、

 

自分が隠蔽しているものを見せられることもある。

 

いずれにせよ、今の僕は、どちらも、

 

心へ戻ってゆくステップとして使ってゆく。

 

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↑ 僕が筋トレをしながら毎日たんぱく質を200g

   摂取していることを話すと、工場の日本人スタッフが、

     ステーキハウスに連れて行ってくれた。

 

そんなわけで、

 

3月のフィリピンは、もうすでに夏本番、という感じだが、

 

まだ乾季なので、空気は乾燥していて爽やかである。

 

 

 

ここのところ、毎週アジアの異なる場所で過ごしているが、

 

ずっと決断の主体に戻ることばかりをやっていると、

 

自分はいつも同じ場所から一歩も動いたことがなく、

 

常に空間の方が、

 

舞台装置のようにくるくる動いているような、

 

不思議な感覚になってくる。

 

 

兄弟たちを赦したいと望めば望むほど、

 

肉体としての兄弟は本物ではなく、

 

ただの〝動くかたまり〟のように見える。

 

 

神の子である本物の兄弟たちは、

 

肉体を越えた場所にいる。

 

表現して出す

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昨日、久々に、トレーナーのもとで筋トレをした。

 

僕のメニューは、とにかく高重量を挙げまくる、というもので

 

120キロのバーバルを肩に担いでスクワットをしたり、

 

100キロのダンベルでチェストプレスをする。

 

もう、これ以上は無理、と思ってからも、

 

トレーナーの補助で、もう3回ほど挙げさせられる。

 

 

「そのまま倒れても、僕が補助するから大丈夫」

 

「まだやめろと言ってない。弱音を吐かないっ!」

 

「限界を自分で決めない。僕が挙がるって言ったら挙がる」

 

と、吐くほど辛い僕に、トレーナーが激を飛ばす。

 

 

筋肉をつけるには、先ず、その部位に高負荷をかけて、

 

筋肉繊維を破壊させる必要がある。

 

その壊れた筋肉繊維が修復される際に、筋肥大が起こり、

 

筋肉量が増え、脂肪が燃焼する。

 

 

赦しの実践も、筋トレに似ている。

 

聖霊は、ある程度の負荷(葛藤や苦しみ)を与えることで、

 

心の位置(真に選び変える場所)まで僕達を戻そうとする。

 

自我モードで見れば、葛藤や苦しみは、回避するもの、

 

または、乗り越えるもの、として捉えられるが、

 

聖霊モードで見れば、それは聖霊トレーナーが差し出す

 

故郷へ戻ってゆくためのトレーニングメニューとなる。

 

なので、何かの葛藤や苦しみが起きた時、

 

聖霊は、その現実を神へと戻ってゆくために使う。

 

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↑ 今日の赦しはコレ 

 

これは、僕自身の〝コースあるある〟なのだが、

 

コース兄弟に葛藤や苦しみが起きる状況のひとつとして、

 

思っていることを言っちゃったが為に、葛藤でびゅんびゅん

 

というのがある。

 

 

例を挙げると、

 

先日、プロテインやいろいろなサプリを売っている店で、

 

プロテインバーを5本買った。

 

だが、後でレシートを見てみると、6本購入になっている。

 

即行、店へと引き返し、一本分多く支払ったので、

 

その分を返金してくれ、とカウンターの兄ちゃんに言ったら、

 

店の規則で、返金は一切できないが、その代わり、

 

多く支払った分のプロテインバーを差し上げます、という。

 

兄ちゃんの言うことを全て受け入れるか、それとも、

 

ちゃんと主張をして返金をしてもらうか、一瞬、迷った。

 

が、僕は後者を選んだ。

 

「これは計算ミスをした店側の責任ですよね。

 

   なのにどうして返金してもらえないのですか

 

   僕は5本しかプロテインバーは必要ない。

 

   だから、ちゃんと返金してください。」

 

凄い目をしてスタッフの兄ちゃんに言ったら、

 

びびった兄ちゃんは、即座に返金してくれた。

 

 

多分、コースも何もしていない普通の兄弟であれば、

 

それで一件落着、となるのだろうが、

 

これがコース兄弟となると、そうはいかない。

 

兄弟を咎めてしまった(神を咎めてしまった)という、

 

罪悪感から来る葛藤を直視することとなる。

 

 

また、他のコース兄弟が、

 

こんなやり取りをしているのを目の当たりにしたら、

 

「バリバリ咎めてるやん!」と思ってしまうのだろうが、

 

僕の場合、その葛藤を浮上させるために、敢えて、

 

兄弟に対して「それはおかしい。」と思っていることを、

 

きちんと表現する。

 

それで、出てきたびゅんびゅんを赦してゆく。

 

 

なぜなら、

 

「こんなことを言えば、兄弟を咎めることになるので、

 

 何も言わずにただ受け入れ、心の中で兄弟を赦そう。」

 

と、思った時点ですでに咎めているので、

 

言っても、黙ってても、結局は同じなのだ。

 

それであれば、その時、兄弟に対して感じた葛藤を、

 

キチンと相手に伝え、その結果、上がってきたものを、

 

赦していくほうが、僕の場合は手っ取り早い。

 

 

ただ、葛藤からくる怒りを兄弟に伝える際に、

 

僕自ら注意していることは、

 

兄弟に100%の信を置いて内部の葛藤を表現する、

 

赦しを完結させるために出す、ということであり、

 

決して、相手を攻撃するために主張するのではない、

 

という点だ。

 

ここだけは、聖霊と一緒にちゃんと観ている。

 

 

要するに、咎めない、裁かない、というのは、

 

先ず、咎めている自分をキチンと認め、

 

そこから出てくる気持ち悪いものを、

 

直視することから始まる。

 

そうやって、忘却の心の中でやっていることを、

 

表へだすことで、 自然と聖霊へ選び変えてゆく。

 

 

というわけで、明日からフィリピンだというのに、

 

今日は、筋肉痛で階段も登れない。

スモール地獄経由

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大阪での会議を終え、先週末は実家でゆったりと過ごした。

 

金曜日は歯医者で歯のホワイトニングをしてもらい、

 

土曜日は天気もよかったので、梅田に出ていろいろやった。

 

でも、花粉症なのか、鼻がムズムズする。

 

 

帰国日は、

 

両親とマルビルの『桂』でお昼の懐石を頂いたあと、

 

ヒルトンの『つる家』で1400円もするぜんざいを食べた。

 

その後、梅田ハービスからバスに乗って関空へと向かった。

 

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実家にいる間は、両親を聖霊と同じものとして接した。

 

そうすることで、両親の言葉はみな、聖霊の言葉となる。

 

 

「向かいの佐藤さんの息子、大学に通ったらしいで。」と父。

 

「あそこの息子は60歳、今年定年やで。」と母。

 

「やっぱり、キリンのラガーが一番美味いな。」と父。

 

「いま飲んでるのはプレミアムモルツです。」と母。

 

 

これを聖霊の解釈を通して聴くと、

 

全ては幻覚で狂っている、となる。(笑)

 

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とまあ、こんな感じで、

 

聖霊と共に、一日のほとんどを過ごしている僕であるが、

 

僕の場合は、聖霊をこの世界へ招き入れるのではなく、

 

僕が決断の主体の位置(ひとつの心)まで戻ることで、

 

聖霊と繋がることができる。

 

 

最近では、

 

パソコンで資金繰管理表を作成する、といった、

 

現実的な作業をしている時でも、

 

決断の主体と聖霊を保持できるようになってきた。

 

 

またこの位置まで戻ると、

 

神から分離できると考えたことが唯一の原因であり、

 

本当はそんなものは起きてさえいなかった、

 

ということが、ありありと思い出されてくる。

 

 

その一方で、これまで自分が、

 

いかに、この狂った世界を信じてきたか、

 

いかに、この世界の幸せを最重要視してきたか、

 

いかに、神(父)を咎め、裁きたいと思っているか、

 

を直視させられる。

 

 

このように、

 

天国の想念が感じられるようになってくると、

 

この世界の幸せがいかに〝インチキ〟であるかを知る。

 

というか、この世界こそが紛れもない〝地獄〟であり、

 

すでに自分は地獄にいるのだ、と自覚されてくる。

 

 

日本に暮らす、だいたいの人たちは、

 

〝色々あるけどまあまあ満足〟

 

〝あのことがなければ幸せ〟

 

〝基本平安、時々、びゅんびゅん〟など、

 

自分の人生は、おおむね悪くない、

 

と思っているのではないだろうか。

 

 

だが、これはある意味、自我が生き延びるための、

 

巧妙な仕掛けである、と断言できる。

 

ずっと僕達を、檻の中も、まあ悪くない、

 

状態にしておくことで、

 

自我の世界(ここ)を存続させることができる。

 

 

なので、

 

この自我の世界から〝本気〟で抜けたいのであれば、

 

満足、幸せ、平安、の方ではなく、

 

〝色々〟〝あのこと〟〝びゅんびゅん〟の方を、

 

直視していく必要がある。

 

なぜなら、そこから起こる苦しみや葛藤は、いわば、

 

この世界(自我)への拒否反応、と言えるからだ。

 

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永遠に父が待つ故郷へ帰ってゆくには、赦しが必要であり、

 

真の赦しは、幻想の外側(忘却のベールの向こう側)

 

でのみ達成される。

 

そして、幻想の外側へ出るには、

 

この幻想こそが地獄だと気づかせてくれるもの、

 

すなわち、苦しみや葛藤が不可欠なのだ。

 

 

まあ、だからと言って、大きな苦しみや葛藤に、

 

自ら進んで身を投じるのも、ちょっとナンなので、

 

僕なんかは、スモール地獄経由、でやっている。

 

 

テレビに出てくる人や事件、メールに書かれてある一言、

 

聖霊部長(元コンババ)とのやり取りや、

 

腕に〝乾燥〟という漢字の刺青を入れ、

 

汗だくになって歩いている外人さんを見て、

 

全然乾燥ちゃうやん、とツッコみながら、

 

一発ドッカーンではなく、チマチマと数をこなしてゆく。

 

 

それらをまず、ひとつの原因まで戻し、

 

自分で神との分離を望んだ、ということを認めたあと、

 

分離など起きてなかった、という聖霊の声とともに、

 

ハートの中へと入ってゆく。

 

 

そうやって、大阪から香港のアパートに戻ったときには、

 

夜の11時を過ぎていた。

 

↓ なぜか急に奈良へ行きたくなった ↓

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