香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

世界に反応しないということ

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↑ 1979年放送の多岐川裕美主演『七瀬ふたたび』より

      村地弘美演じるタイムトラベラーの藤子(右)が好き。

 

この土日はずっと大雨が降っていたため、

 

どこへも出かけず、家で昔のドラマを見ながら過ごした。

 

『七瀬ふたたび』 『その町を消せ』 『幕末未来人』

 

などの、NHK少年ドラマシリーズをイッキ見した。

 

NHK少年ドラマシリーズ特有のちょっと隠微な世界観が

 

薄暗い部屋と相まって、僕を不思議な世界へと誘う。

 

 

それにしても、時間はある意味幻想だ、とつくづく思う。

 

 七瀬ふたたびの多岐川裕美を見たあと、別のドラマで、

 

お姑役をしている多岐川裕美を見たが、別人だった。

 

先日亡くなったショーケンもそうだが、

 

どんな美男美女でも、時間はその人を、

 

外見だけでなく、中身をも変えてゆく。

 

時間によって朽ちてゆく、という事だけを見ても、

 

そんなの真実ではない、と分かる。

 

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時間と言えば、

 

今年に入って一層時間が加速している気がする。

 

いや、気がするどころではない。

 

絶対に速くなっている。

 

実際、時間の加速はネットの普及と関係がある、

 

と言っている学者もいる。

 

スマホやネットに没頭している時って時間が速く過ぎる、

 

と感じるものだが、そこにはネット時間(虚の時間)

 

というものが作用しているのだという。

 

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閑話休題。例えば、

 

私が愛用している万年筆、私のお気に入りのネクタイ、

 

私の好きな休日の過ごし方、一目惚れして買った服、

 

私が飼っているペット、大好物の食べ物、私の愛車、

 

また逆に、 

 

私の嫌いな食べ物、私が苦手とする誰々さん、

 

高い所が怖い、誰々さんが怖い、災害が怖い、

 

居心地の悪い場所、生活のための仕事、などなど…。

 

 

世界丸ごと特別な関係だった、という事実に震える。

 

全ては〝わ・た・し〟が基軸となって展開されている。

 

全ては〝わ・た・し〟との関係性だけで成立している。

 

それ以外には何もない。

 

本当は、自分が獲得したものなんか無いのに…。

 

 

物事に〝わ・た・し・の…〟が入ると世界がリアルになる。

 

私のモノは絶対に手放したくない、奪われたくない。

 

結果、あらゆる手段を講じて、それらを守ろうとする。

 

そこから闘いが始まり、平安は失われる。

 

 

ネットゲームで獲得した武器やポイント同様、

 

実際には何も獲得していない。

 

〝わ・た・し・の…〟への信念、原因はそこにある。

 

 

日常生活普通に実在化させている〝わ・た・し・の…〟

 

を、ひとつひとつ原因から直視し、赦してゆく。

 

現実的に、わたしのなんちゃら、を手放す必要はない。

 

手放そうとする行為ですら、

 

確かにそれは私のものです、私が持っている、

 

という幻想を強化していることになる。

 

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なので、僕たちがすることは、

 

父が自我の分離に対して一切反応しなかったように、

 

ただ、自我に反応しない、ということだけである。

 

そうすることが、自我を実存させない、ことになる。

 

こうして、幻想を使って、父の心を学んでゆくのだ。

 

 

最近の僕のシチュエーションで言うと、

 

並んでいる列に横入りされた時(中国ではよくある)、

 

仕事中、あの人のミスでこうなった、と感じる時、

 

間違ったことをしているように見える人たちを

 

〝実在化〟させているのは、

 

明らかにそれを信じた自分である、という事実に気づき、

 

実在しないものを実在させているその原因を赦す。

 

その後は、外側にも内側にも、一切反応しない。

 

それが今の僕の赦しになっている。

 

 

とまあ、そんな感じな週末であるが、

 

このままで行けば、4月は多分、

 

二週間くらいで過ぎてゆくと思われ…(笑)。

点の中の世界

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昨日は、筋トレの後、トレーナーと一緒に、

 

ミッドレベルのソーホーエリアで食事をした。

 

香港を旅行した人はご存知かと思うが、ミッドレベルは、

 

セントラルの長い長いエスカレーターを上った先にある、

 

医者や弁護士など、香港セレブが多く住む地域だ。

 

坂道の中腹にあるソーホーエリアには、バーをはじめ、

 

エーゲ海料理、イスラエル料理、ギリシャ料理、など、

 

あらゆる国のレストランが軒を連ねている。

 

最初僕たちは、ネパールレストランに入ろうとしたが、

 

満員だったので、結局、アルゼンチン料理にした。

 

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僕の食事は基本、トレーナーに管理されているので、

 

この日も、蛋白質の多い牛肉やサーモン料理を頼み、

 

パスタやピザなどの炭水化物は一切注文しなかった。

 

 

アルゼンチン産のトラピチェワインで乾杯する。

 

そう言えば、このトレーナー氏と本格的に筋トレを始めて

 

かれこれ2年近くになる。

 

その間、厳しい指導のお蔭もあり、

 

肉体は確実に変わった。

 

以前、お腹のボタンがはちきれそうだったワイシャツも、

 

今では、胸のボタンがはちきれそうになっているし、

 

ズボンもなんとかウェスト72センチをキープしている。

 

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「食事や自主トレなど、星谷さんは僕が言ったことを、

 

 きちっと実践されたから成果が出たのですよ。」

 

とトレーナー氏は言った。

 

 

当初、彼は僕に三食ガンガン食べるよう指示した。

 

こんなに食べて大丈夫なのかと一瞬戸惑ったが、

 

それでも言われるようにしていると、一旦は太るのだが、

 

やがて筋肉量が増え、その分代謝が上って、

 

その後、みるみる痩せていった。

 

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僕は筋トレを通じて、自分の想い込みでやろうとせず、

 

何事も、どうすればいいかを知っている専門家に、

 

100%の信を置いて任せることの重要性を学んだ。

 

だって、

 

自分のやり方が間違っていたからブチャったわけで…。

 

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今日は、エドワードは中国へ行っているので、

 

僕一人、オフィスでお留守番だった。

 

なので、気兼ねすることなく、大音量で、

 

ワプニック氏の音声動画を聴きながら仕事をした。

 

彼は早口な上に、声もかなりハスキーなので、

 

再生速度を通常より20%ほど落として聞いた。

 

 

〝存在していないものに、なすべきものは何もなく、

 

 修復すべきものも何もない。あなたがすべきことは、

 

 ただ、戦場を越えた場所(決断の主体)から、

 

 夢に対して微笑んで観ることだけである。〟

 

 

〝想念はその源を離れないのだから、

 

 外側にあるものは、心の中のその源から、

 

 一度も離れた事がない。

 

 よって、外には誰も存在しないし、

 

 誰かと繋がる自己も存在しない。〟

 

 

ワプニック氏の動画は以前からよく観てはいたが、

 

ここへ来てようやく、

 

これらの言葉の意味を真に理解し始めている。

 

「ええっ。このおっちゃん、こんなこと言ってたっけ?」

 

てな感じである。

 

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以前書いたこのブログ記事の中で、

 

「全部この一点だけでやっている。」「そこしかない。」

 

と、この、とか、その、といった

 

ややこしい表現をしてきたのだが、

 

「外側にあるものは、その心の中の源から、

 

 一度も離れたことがありません。」

 

という彼の言葉を聞いて、

 

「ああ、そうそう、このことを言いたかったんだあーっ!」

 

と、思わず手を叩いて小躍りしてしまいそうになった。

 

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相手のちょっとした好意や言動から引き起こされる、

 

憎悪や、恐怖や、ちょいイラ、または、安らぎや、幸福感、

 

と言った想念は、全てその源から離れていない場所で

 

起こっており、よって、赦しもまたその場所で行なわれる。

 

 

言い方を変えると、

 

存在していないものを、存在していないとして赦す、

 

相手をそこに存在させない場所から赦しを行なう、

 

ということだ。

 

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あ、そうそう。トレーナーと食事をしていたとき、

 

彼の新婚の奥さんがものすごい倹約家で、

 

雰囲気のいいレストランの食事ももったいない、

 

部屋に花や植物を飾るのも無駄遣いだ、

 

ちょっとした旅行に行くのもダメ、と言われ困っている、

 

という話題になり、その流れで僕が、酔いに任せて、

 

今の豊かさを大切にする、とか、

 

未来のために今を制限する必要はない、

 

と言ったことを話していた。

 

 

その瞬間、〝倹約家の奥さん〟を実在化させている、

 

ということにハッと気づいた。

 

そして、それは誰がやっているのか?

 

わ・た・し・が、やっている。

 

存在していないものを存在させているのは自分だった、

 

と、ハタと悟ったのだ。

 

それに、

 

幻想を存在させている〝わ・た・し〟は、ここにはおらず、

 

全てあの〝一点〟の中だけでやっている。

 

 

全ての特別な関係を、存在しないものとして、

 

ひとつの源である想念の場所で赦す。(←ややこしいな)

 

 

そういう意味で、僕はようやく、

 

本当の赦しをしてゆくそのスタート地点に立ったのだな、

 

と感慨を新たにしつつ、

 

ソーホーの夜は更けてゆくのであった。

君は神を見たか!

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これまでの赦しは、様々なびゅんびゅんを原因まで運び、

 

そこから聖霊と共に自我を直視して選び変えていたが、

 

最近は、決断の主体と常に一体になっている状態から、

 

世界を観ていられるようになってきた。

 

なんていうか、決断の主体へ戻る、という感じではなく、

 

決断の主体と一致している、という感覚なのだ。

 

その結果、次々と目の前に顕われて来る人や事柄に、

 

深い感謝と慈愛が溢れ出す、という体験が起きている。

 

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前回〝自分は不幸を幸福だと信じている〟と書いたが、

 

このことに心底気づいて、もう神の平安だけでいい、

 

と、そこにカチッ、と一致して日々過ごしていると、

 

心の中が自然と聖霊に凌駕され、あらゆるものに対し、

 

無条件に有難いような、わけもなく嬉しいような、そして、

 

春先などに感じる、ワクワクソワソワ、心躍るような、

 

なんとも形容しがたいエクスタシーに包まれる。

 

 

聖霊の眼差しを通して、いまここに在る兄弟を観る。

 

すると、一点の咎めも無い無実の存在と認識され、

 

そこから、感謝と慈しみの気持ちが噴出してくる。

 

この世的な好い事など何も起きていないにもかかわらず

 

心は大きな喜びと共に、深い安らぎに包まれている。

 

これは、仕事でちょちょ舞っている時でさえそうであり、

 

起きている状況とは全く関係なく起こる。

 

 

そうやって、いまこの瞬間だけに感謝し続けていると、

 

後の事は自然と聖霊が面倒を見てくれるから不思議だ。

 

〝そう〟なる前に必ず〝そう〟なることが分かるのだ。

 

要するに、いま在る光への感謝が、未来に延長される。

 

 

僕も、日常生活の中で、24時間常に1ミリのブレもなく

 

〝そこ〟にいられるわけではないが、

 

少しでもハートに触れ、無罪性を目撃してしまうと、

 

もう、間違った幸福と同一化できなくなる。

 

そして、ニセモノの幸福を少しでも信じている間は、

 

絶対に終われないと解かる。

 

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そんなこんなで日曜日の〝いま〟をゆるゆると過ごす。

 

トーストを食べながら〝サンデージャポン〟を見たあと、

 

〝上沼恵美子のクギズケ!〟を見る。

 

それから、ジムに行こうと思っていたら、

 

急に睡魔に襲われ、しばしベッドで爆睡してしまった。

 

 

後頭部がじんじんと痺れ、ベッドに沈みこむような、

 

心地よい眠気が、上げ潮となって満ちてくるのを感じる。

 

 

過去でも、未来でもなく、まさに〝いまこの瞬間〟に、

 

真の平安はあるのだと実感しつつ、眠りに落ちて行った。