香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

差のない夢

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⇑ 旧日航ホテルで開催された地銀の交流会に参加。

   名刺交換もそこそこに、

   白ワイン⇒おでん⇒赤ワイン⇒焼き鳥

   を繰り返すボクであった。

 

ああ、怒涛の6月もやっと今日で終わりだよぉ。

 

今月は、出張と引越しの準備で、本当に忙しかった。

 

色々な国へ行き、色々な人に逢い、色々な話をした。

 

それに、引越しの準備も佳境に差し掛かっている。

 

先日も、住所変更の手続きにおおわらわだった。

 

ケータイ電話会社、香港の銀行と日本の銀行、

 

保険会社、郵便局の郵便物転送サービスの手続き、

 

など、暑い中、一日中、あちこち駆けずり回った。

 

これまでは、ケリーが全てやってくれていたのだが、

 

いまは全部自分でやる。(⇐ ちょっとドヤ顔)

 

それに、年齢を重ねると、全てのことが億劫になる。

 

 

それでも引越しには、これまでの生活をリセットしたり、

 

家に溜まったさまざまなガラクタを捨てまくったり、

 

今の自分の意識に合った部屋造りができたり、と、

 

新しい地域で、新しい暮らしを始めるワクワク感がある。

 

なので、次々に顕われては消えてゆく夢の映像を前に、

 

無意識の中へと埋没してしまうことなく、ひとつひとつ、

 

これは夢だと観止め、丁寧に赦してゆこうと思っている。

 

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⇑ かつて3万人いた香港在住日本人も、

    ついに9000人になってしまった。

    原因は業務が中国へシフトしたのと家賃の高騰。 

 

で、夢を夢として赦していくことを通して見えてきたのが、

 

「世界のあらゆる問題は、どれもみな〝同じ〟である。」

 

という感覚である。

 

失業、病気、というような一見重大に見える出来事も、

 

車で横入りされた、というような些細に見える出来事も、

 

何ら相違のない、全く同じものとして感覚化されてくる。

 

その〝同一な感じ〟は、言葉ではうまく説明できない。

 

差がない、とか、差を見ない、というのでもなければ、

 

ただ在るだけ、とか、起きていないが故に同じだ、

 

というのでもない。

 

また、AであってもBであっても、どちらでもオーケー、

 

というような、選択の基準のことを言っているのでもない。

 

どんな夢を見ようが〝同じ〟としか言いようがない。

 

 

これはあくまで僕の場合であるのだが、

 

引越し準備であたふたしている時はあたふたしているし、

 

家でワイドショーを見て、あーでもない、こーでもないと、

 

ツッコミを入れつつ、くつろいでいる時はくつろいでいる。

 

だけど底辺には常に〝同じ〟という感覚が流れている。

 

 

また〝同じ〟〝序列がない〟に関して誤解しやすいのが、

 

大切な人を亡くすのと、財布を失くす事に差はないので、

 

感じ方の程度も同じである、と思ってしまう点である。

 

そうではなく、大切な人を亡くせば、死ぬほど悲しいし、

 

財布を失くせば、焦るには焦るが、警察へ届けたり、

 

カードを止めたりと、理知的な行動が取れたりする。

 

それでも、世界は存在していない、と認識しており、

 

目が覚めれば跡形もなくなってしまう世界に於いて、

 

ふたつの事柄は同じであることを了承している。

 

 

まあ、僕もプロセスの途中であり、この〝同じ〟

 

という感覚はどんどん深化してゆくと思われる。

 

 

なんか、言葉の限界が来てしまったところで、

 

もう寝ることにする。

 

おやすみなさい。

 

 

ハートを忘れない

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前回の記事で、断捨離をしまくっていると書いたが、

 

だんだん捨てるモノがなくなってくると、

 

今度は、パソコンやスマホの中を断捨離しはじめた。

 

 

わけの分らない仕事関係のファイルや、

 

電話帳に登録されている見覚えのない連絡先の数々、

 

そして、二度と見ないであろう大量のメール、など、

 

もう、次々に削除しまくって行く。

 

意識が断捨離モードに入ってしまっているので、

 

必要なものまで捨てている可能性もあるが、

 

まあ、あまり気にせず、ガンガン手放す。

 

 

そんな中、パソコンのDドライブを整理していると、

 

ハレ師匠から個人授業を受けたときの動画が出てきた。

 

プロパティを見れば、2013年とある。

 

うわっ、懐かしー!

 

講義を見てみる。が、当時のことを全く覚えていない。

 

食い気味に質問をしまくるボク。自分の声も気持ち悪い。

 

恥ずかしさのあまり、思わず大声で叫びだしたくなる。

 

それでも〝ハート〟についての集中講義を見て、

 

久々にハートに深くアクセスすることができた。

 

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判断しない=感じる=委ねる=悦=エクスタシー=ハート

 

 

判断を聖霊に委ねることがハートを感じることであり、

 

それによって癒しが起こり、真の平安(悦)が獲得される。

 

 

何かに集中している時は、ハートを忘れている。

 

考えに集中させることでハートを忘れさせようとするのが

 

エゴの策略だ。

 

 

ハートを感じるのに、思考は要らない。

 

神を判断した時点で神ではなくなる。

 

なぜなら、神は無だからである。

 

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心の中から夢を眺め、

 

はなから起きていないことを赦すようになってから、

 

純粋なハートそのものが意識されるようになってきた。

 

それは、カッカしたり、テンパったりすることで、

 

自我に歪められ、横領された、

 

別の感じ方になっているハートではない。

 

聖霊を想い出しているときに感じる、深い深い平安だ。

 

 

とは言っても、僕もまだまだ修行中の身なので、

 

ずっとハートの中で過ごせているわけではないけれど、

 

赦せば赦すほど、純粋なハートの力動が大きくなる。

 

 

判断せずに感じる。聖霊に委ねたところで感じる。

 

ワプニック氏の赦しを実践してはいるけれど、

 

この〝感じる〟という感覚にもっと素直になろうと思った。

 

なぜなら、赦しの先には必ず、

 

純牛なハートの歓びが待っているのだから…。

 

 

というわけで、引越しを2週間後に控えたいま、

 

表面的にも、内面的にも、断捨離敢行中のボクである。

 

 

奇跡とは〝爆発〟だっ!

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今日の香港の気温は36度。

 

今月は出張の嵐で出ずっぱりだったため、この週末は、

 

ガンガンにエアコンをかけ、家でお籠りをして過ごした。

 

ヤマト運輸の人が古い段ボールを届けてくれたので、

 

引越しも近いし、午後から思い切って断捨離を決行する。

 

 

古い靴、医者から貰った薬の数々、大量のペンや袋、

 

VHSのビデオデッキ、DVD、二度と読まない書籍、

 

食器、衣服、冷蔵庫の中身、訳の分らない紙類、など、

 

捨てて、捨てて、捨てまくる。

 

この本は読まないけれど、もう手に入らないし、とか、

 

流行遅れで着れないけど、好きなスーツだし、とか、

 

そういうのも、どんどん段ボールに放り込んでゆく。

 

なんだか、自分の心の中の大掃除をしているみたい。

 

結局、段ボール7箱まで詰めたところで疲れてきて、

 

残りはまた来週、となった。

 

 

香港では、ごみの分別がないため、どんなゴミでも、

 

それぞれの階にある非常階段の踊り場に置いておけば、

 

アパートの掃除のおばちゃんが毎日持って行ってくれる。

 

段ボールや衣服や電器類は廃品回収に売れるので、

 

掃除のおばちゃんたちの臨時収入源になっているのだ。

 

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夜は奇跡講座の中国語版テキストを読んで過ごした。

 

日本語版は二回読んでいるのだが、断捨離の途中で、

 

中文版の奇跡講座を見つけ、改めて読んでみた。

 

中国語版は何しろ文字数が少ないので速く読める。

 

「私はあなたを愛しています」と言うのに、日本語なら

 

12文字必要だが中国語なら「我愛你」の三文字で済む。

 

で、たまたまページを開いて読んだのが、

 

〝狂った夢〟について書かれているところだった。

 

 

ほんとうに、罪悪の夢は狂っている、と思う。

 

夢の映像のあらゆることを恐れなさい、

 

こういう状況にになったら怒らなければならない、

 

病気になったら全力で肉体を治そうとするべきだ、

 

他人の運子は自分のより汚い、ゴキブリは悪だ、

 

これらは習慣化された条件づけ的反応である。

 

狂った夢の中で下される思考の判断は有罪か無罪か、

 

要するに、その二つだけである。

 

 

そして、これらの夢を、寝ている時に見る夢と同じ、

 

全く意味がないもの、として信じないことが、

 

ここ最近の僕の赦しとなっている。

 

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その夢のストーリの中で、しばしば起こる、

 

罪悪の浄化作用が〝爆発〟である。

 

夢の出来事に、突然ブチッ、と来て爆発する。

 

実際、相手に怒りをぶちまけることもあれば、

 

心の中だけでギンギンにぶち切れることもある。

 

 

夏至の日が関係しているかどうかは定かではないが、

 

ここ最近、幾人かのコース仲間の間で、岡本太郎現象、

 

もとい、この爆発現象が頻発しているらしいのだ。

 

 

まあ、外面的な爆発は、人間関係に齟齬を生むし、

 

内面的な爆発も、妄想劇場が起きたりして苦しいものだ。

 

これがコース兄弟となると、赦そうとしてしまうので、

 

苦痛は倍増する。

 

爆発させてしまったことで夢を実在化させてしまった、

 

という罪悪感に襲われるからだ。

 

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しかーし!ちょっと待ったーっ!

 

爆発させてなにが悪い、である。

 

爆発が起こらなくても、それは隠しているだけであり、

 

爆発によって、エゴがさらけ出されてきただけである。

 

 

エゴは、直視されれば消える、という性質を持つ。

 

もともとは〝無〟だからだ。

 

逆に言えば、見なければ無を確認できないということだ。

 

そのために〝爆発〟を使うのだ。

 

さらけ出すことによって、そんなものは無かった、と、

 

認識してゆくことができる。

 

 

赦そう、とか、平安を選択しよう、とかも必要ない。

 

それは得てして、ラクになりたい、の裏返しだったりする。

 

 

爆発後の毒素のような不快感をただ凝視するだけ。

 

3日間でも10日間でも見つめる。

 

不快感が消えるかどうか、も関係ない。

 

どうなるかは、聖霊兄貴に委ねる。

 

 

爆発は、ある意味、心の断捨離なのかもしれない。