香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ハートで勝負!

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先週金曜日は、午前中、銀行回りをした後、午後は、

 

香港支社2020年社内カレンダーを作成して過ごした。

 

うちの会社は、土曜日が祝日の場合、その分を、

 

他の日に振り替えて休んでもよい決まりになっており、

 

そういうものを加味すると年間休日が125日となった。

 

そのうえ、僕のような海外駐在員に対しては、

 

年間14日の里帰り特別休暇が賦与され、

 

そこへ、働き方改革で有給を10日は消化せねばならず、

 

また、台風や冬至や旧正月前の特別早退などを含めると、

 

最終的に僕の来年度の年間休日数は152日となった。

 

普段はそんなに休んでいる感覚はないのだが、

 

改めて計算してみると、かなりな〝ゆとり〟である。

 

というわけで、社長、安倍総理、ごっつあんですっ!

 

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以前、ハートの悦(エクスタシー)は、性的な感覚に近い、

 

と書いたことがあるが、今日、ふと思ったのは、

 

トランプ(アメリカ大統領ではない)などに使われる、

 

あのハートマークって、

 

非常に強力なエクスタシー発生装置なのだなあ、と、

 

しみじみ感じる今日この頃である。

 

 

例えば、お尻や、バストや、唇や、男性器や女性器など、

 

肉体の中で性的魅力を感じる部位は、

 

必ずハートの形をしているし、人間の顔だって、

 

眉間から顎にかけてのラインはハート型であり、

 

それらの形がより立体的で、完璧なハート型に近いほど

 

セックスアピールや愛らしさを感じさせる。

 

また、行為的な面から見ても、

 

キスをしている場面を横から見るとハートの形になるし、

 

セックスだって、互いの肉体のハート形をした部分を、

 

密着させることによって、性的エクスタシーを得ている。

 

そういう意味で、ハートの形はいわば、

 

人類のムラムラ発生装置と言っても過言ではない。

 

ちょっと大げさかもしれないが、

 

肉体に埋め込まれた、この〝ハートの形に興奮する〟

 

という習性がなければ、人類は存続不能だっただろう。

 

⇓ ハートと性についての関連記事はこちら ⇓

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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それにしても、なぜ人類は、相手の肉体に隠された

 

ハートの形を見てムラムラするのだろうか。

 

おそらく、どんなにすごい官能小説家でさえ、

 

ムラムラを誘発する状況描写はできても、

 

ムラムラ自体を言葉で表現することはできないだろう。

 

そして、この言葉では表現できない喜悦の感覚こそが、

 

ハートの悦(エクスタシー)であり、天国の律動であり、

 

神の理解である、と言える。

 

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そして自我は、宿主となる肉体を存続させるために、

 

ずっと、このハートの悦を横領してきた。

 

それでいて、そのことを僕達に気づかせないよう、

 

セックスで感じるエクスタシーを、不浄で罪深いもの、

 

恥ずかしいもの、として隠蔽してきたのだ。

 

 

しかし今後は、

 

自我の存続のためにハートを利用するのではなく、

 

神のエクスタシーの象徴としてハートを見てゆく。

 

 

とまあ、今回は、赦しとは全く関係ない話だったが、

 

こうして、なにかに〝ムラムラ〟したとき(笑笑)、

 

ああ、ハートだな、と思い出すのもまた、

 

大いなる気づきとなるのかもしれない。

 

(⇑ って、ホンマかっ!)

 

 

世界は優しい

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先週の抗議活動で破壊された地下鉄の設備修復の為、

 

ここ数日、夜八時以降の列車が運休となっている。

 

本社からは、香港支社の社員に対し、

 

帰宅時の混雑を避けるため、

 

しばらくは午後4時半に退勤し、場合によっては、

 

在宅勤務をしてもよい、という通達が出された。

 

また、身の安全を第一に考えるように、と、

 

社長から念押しのメールも来た。

 

 

それでも、月初となればそうもいかず、

 

昨日も8時くらいまでオフィスで仕事をしていたら、

 

元コンババ部長から電話が来て、

 

タクシーに乗って家まで帰ってください、と言われた。

 

星谷さんは、会社が海外に赴任させている駐在員で、

 

もし何かあったら、会社が責任を持つのだから、

 

慎重に行動してください、と説明された。

 

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そんな大げさな、と思いつつ駅まで行ってみると、

 

見事に改札は閉鎖されており、しかたなく、

 

たった一台停まっていたタクシーに飛び乗った。

 

香港島のコーズウェイベイまで、と言ったら、

 

「嫌だ、行きたくない。」と運転手から即行拒否られた。

 

治安が混乱している香港島へは行きたくないという。

 

結局、ホンハムでタクシーを降り、そこからバスに乗って

 

香港島へと渡ることにした。

 

タクシーを降りる時、運転手がおつりを手渡しながら、

 

「気をつけて帰るんだよ。」と僕に声をかけてくれた。

 

瞬間、神の愛が、わわわ、と溢れた。

 

 

会社も、社長も、元コンババ部長も、通りすがりの人も、

 

みんな優しい。

 

それはもう、涙が出るほど完璧に優しい。

 

兄弟に対する咎めや批判に気づき、それを取り下げて

 

ほんの少しでも神を受け容れると、世界が神になる。

 

神に、または、神の反映である兄弟に、ほんの一言、

 

ありがとう、と言っただけで、待ってましたぁーっ、

 

とばかりに、百倍返しで愛が返されてくる。

 

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現実がよくなることが目的ではないんですよ、と、

 

奇跡講座の勉強会などで、よく言われたりするが、

 

神に戻ってゆくとき、現実がよくなるのは当然である。

 

まだその先があるんですよ、という戒めの見地から、

 

ここで立ち止まらないでください、と言いたいのだろうが、

 

20年前じゃないんだから、

 

奇跡講座を少しでも実践している〝いまの〟兄弟であれば、

 

そんなの、わざわざ言わなくても解かってるって!

 

 

だから、

 

いい感じ、幸せ、ヤッター、ラッキー、大好き、落ち着くぅ、

 

といった、ハートに近い感覚を感じたならば、素直に、

 

神や兄弟に愛や優しさを感じて歓んでいればいいと思うのだ。

 

そして、

 

その感覚を、神を想い出す手掛かりにすればいい。

 

  

だって、よく考えてみてほしい。

 

愛そのものである神や、聖霊や、J兄貴が、

 

それは違うんですよ、とか、

 

まだその先があるんですよ、とか、

 

隠蔽してますね、などと言うだろうか。

 

僕たちがいまどんな状態であれ、神や聖霊やJ兄貴なら、

 

ただ、完璧な無辜の存在として僕達を見ているはずだ。

 

なので、神や聖霊やJ兄貴と同じ僕たちも、

 

神や聖霊やJ兄貴と同じように〝考えて〟いればいい。

 

それが、神を聖霊をJ兄貴を選択するということになる。

 

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というわけで、

 

世界がますます優しくなってゆく僕なのであった。

 

 

 

ちょっとだけ不幸

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⇑ 香港にドンキオープン

   ただし写真は、抗議活動過激化前の6月に撮影

 

僕たちって本当に、

 

〝ちょっとだけ不幸〟が大好きなんだな、と思う。

 

ていうか、

 

ちょっとだけ不幸だからこそ平安でいられる、とも言える。

 

逆に、何の代償もなく、100%うまく行ってたりすると、

 

きっと裏に何かあるはずだ、と、不安になったり、

 

きっと大きなしっぺ返しが来る、と、心配になったりする。

 

 

常日頃から、僕たちにとって、100%の幸福、

 

降って湧いたような幸運、代償のない無条件の親切、

 

といったものほど恐ろしいものはなく、それらに対して、

 

自動反射的に恐怖と罪悪感を覚えるようになっている。

 

そしてそれは、神の愛を恐れていることの象徴だ。

 

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⇑ でも店内はスーパーみたい
 

 例えば、

 

旅行のツアーを申し込もうと旅行代理店を訪れたとする。

 

そのとき、カウンターで応対した職員から、

 

 

〝ああ、ちょうどよい企画がございます。

 

 当社があなたを世界一周の豪華旅行に招待します。

 

 5つ星ホテルにお泊りいただき、

 

 飛行機は全てファーストクラスをご用意いたします。

 

 旅で使うお小遣いも、全てこちらで負担しますよ。〟

 

 

と、ニコニコ顔で告げられたとする。

 

絶対おかしい、これには絶対何か裏がある、と思う反面、

 

本当だったらすごいラッキーかも、と思ったりもして、

 

この話を受けようかどうしようか迷いに迷っている時、

 

「実は、わが社では〝豪華旅行をしながらダイエット〟

 

 という新企画を立案中で、あなたにはモニターとして、

 

 この企画に参加していただきたいのです。」

 

と、スタッフが説明を付け加えた。

 

ちょっとだらしなくなった自分の体型にも説得力があり、

 

ああ、そういうことだったのか、と大いに納得し、

 

安心してこの旅行に参加することを決める。

 

 

これがもし、本当に無条件で、

 

何の見返りもなく招待された旅行だったら、

 

あまりに怖くて参加できなかっただろう。

 

また逆に、すっごく気難しい金持ちのオッサンの付き人

 

としてこの旅行に参加してください、というのだったら、

 

絶対に断っていたはずだ。

 

なので、僕たちが、愛の中で平安で在ろうとするとき、

 

これなら許容範囲、と思えるような、

 

〝程よい対価〟を常に望んでいることになる。

 

 

「でもちょっと待てよ。こんなの平安でも何でもない」

 

と、こういう微妙に不幸であろうとする心を観てみる。

 

ただし、どんなうまい話にも疑わずに乗ってみろ、とか、

 

100%の幸せで行動しよう、というような、

 

行動レベルでのことを言っているのではない。

 

何が起こっても起こらなくても、愛は自分を傷つけない、

 

ということを知るために、内側を見てゆく。

 

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すると、実は、これと同じようなことを、

 

神に対してもやっていることに気づく。

 

父の愛は無条件であり、少しの見返りも求めない。

 

なので、父は常に、何の代償も要求することなく、

 

私が持っている全てのよきものを与えよう、と言う。

 

しかし、現実世界で自我に騙されまくっている僕らは、

 

そんなウマい話はない、何か裏があるはずだ、と、

 

恐怖と猜疑心で、即行父の愛を拒否してしまうのだ。

 

 

赦しに於いてもそうだ。

 

故郷である神の国へ永遠に帰還するのが目的なのに、

 

そう易々と赦して、戻れるわけがない、と思っている。

 

結果、一生罪悪感ばかりを観ることとなる。

 

ただ、ここで注意すべき点は、

 

罪悪感を観る必要などない、と述べているのではない。

 

僕だって、隠蔽された罪悪感を直視し続けてきたからこそ

 

自我の思考体系を見破れるようになった。

 

ただ最後は、神の愛に触れなければ赦しは完結しない。

 

 

父はただ、愛と歓びを与えているだけであり、

 

その絶え間なく押し寄せてくる愛と歓びを受け取って、

 

ただ、愛と歓びでプルプルしていることが、

 

自動的に、父や兄弟に愛や歓びを与えていることとなり、

 

それが神の交歓となる。

 

 

世界に対する自分の心の中の見方を変えることで、

 

僕は今、神との交歓を思い出しているのだ。