香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

春の息吹

 

 

今日は、春うららという感じの、

 

とても気持ちの良い天気だったので、

 

昼から家の近所にある川沿いの道を散策した。

 

新緑の堤防には花が咲き乱れ、風も心地よい。

 

アゲハ蝶が花の間を飛び交い、水鳥が鳴く。

 

こういった平穏さは香港にはないものだ。

 

ウキウキするような春の息吹を感じながら、

 

「ああ、日本へ戻ったんだな」と、改めて実感した。

 

 

 

 

いま、過去の出来事に思いを馳せていたとしても、

 

いま、将来の事をあれこれ考えていたとしても、

 

いま、どんな思いが湧き上がってこようと、

 

いま、ここにある営みのありよう以外、何もない。

 

私の思考を通さなくても、

 

このうららかな春の活動しかない。

 

そしてこの今の営みに、

 

世界はない、神は在る、実存は脅かされない、

 

という真理が、ハッキリと明確に反映されている。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

〝世界は無い〟が示しているのは、

 

世界を見ている〝私〟はいないということである。

 

「この世界は幻想で存在すらしてないんだあ!」

 

と言っている(言い聞かせている)自分がいる限り、

 

世界はずっと在り続け、世界を赦すこともできない。

 

そして、

 

自分というものをとことん歯牙にもかけず、

 

この6感の営みの様子に直に触れたとき、

 

〝神は在る〟(神しかない)が明確になる。

 

 

初夏に向けて

 

 

約三週間ぶりに筋トレを再開した。

 

今回入会したゴールドジムでは、

 

Tシャツと、短パンと、シューズと、タオルが、

 

全てその場でレンタルできるコースにしたので、

 

いつでも手ぶらでジムへ行き、トレをしたあと、

 

手ぶらで出てこれるのだ。

 

 



 

この日は、久しぶりのトレということで、

 

体慣らし程度の軽い重量しか挙げなかった。

 

数キロの小さなダンベルで背中や肩を鍛えた。

 

やはり、ゴールドジムはマシーンの数も多く、

 

フリーウェイトエリアも充実していて、使いやすい。

 

ただ香港のクールなスタッフに慣れているせいか

 

常にニコニコ顔の礼儀正しいスタッフさんには、

 

少々戸惑いを感じてしまう。

 

(戸惑うと言えば、横断歩道を渡る際、日本では、

 

 車の方が止まって待っていてくれるんだね)

 

 

 

 

そんな感じで、ようやく手続き関係も終わり、

 

今はゆったり日本の生活を楽しんでいる。

 

(高齢の母がいるので、昼間は外出するが、

 

 夜は7時には家に戻る毎日)

 

香港から戻ってまだ1か月経っていないのに、

 

競馬場をランニングしていた日々がもう、

 

一年くらい前の事のように思える。

 

以前の僕だったらたぶん、

 

スーツを着て颯爽と歩いている人たちを見れば、

 

何だか取り残されたような焦燥感を感じて、

 

すぐに就活とかして行動を起こしていただろうが、

 

いまは、この瞬間瞬間に赦され切っていく営みを、

 

ただ普通に、生きている。

 

そうして、起こることは起き、出会う人には出会う。

 

これまでだって、こうやってやってきたのだ。

 

 

あの時、ああしていれば、もっとこうなってたかも

 

という思いが湧いてくることもある。

 

しかし、

 

あの時にああすることなんてあり得なかった、

 

と、いまなら解かる。

 

 

僕らはずっと、

 

瞬間瞬間が決着しきったその時を生きてきた。

 

そして、今この瞬間もそうやって生きている。

 

 

過去と未来だけの人生

 

 

僕たちにとって最も新しい情報とは何かというと、

 

今この瞬間瞬間、じかに聞こえているもの、

 

見えているもの、匂っているもの、感じているもの

 

味わっているもの、といった、5感から得られる

 

情報こそが最も新しいナマの情報だと言える。

 

その5感の営みそのものだけで、

 

すでに実相が示された見え方になっているのに、

 

僕たちは目の前にあるものを無視して、

 

スマホやネットや書籍といった、

 

過去の情報をもとに未来を予測し、

 

こうしたい、ああなりたい、と言っている。

 

一番肝心な今がすぽっと抜け落ちているのだ。

 

そして、その根源にあるのは、

 

世界を自分から分離した対象物として認識し、

 

その対象物を〝わたし〟の気に入るように

 

コントロールしたい、という捉え方にある。

 

そういう意味で、

 

瞬間瞬間移り変わり、その都度、その都度、

 

決まりがついて昇華されてゆく様に抵抗して

 

僕たちは常に、

 

今と同じ状態を一秒でも長くとどめておこう、

 

あの時代と同じ今を、もう一度復元させよう、

 

また逆に、更に素晴らしいどこかへ到達する為に

 

スマホやパソコンから得られる情報をもとに、

 

何かを変えよう、と懸命に情報収集をしている。

 

人生を、過去と未来だけで生きているのだ。

 

しかし、これらの反応(考え方)なんか無しに、

 

赦され切ったこの営みしかない。

 

しかし、こう書いてしまうとまた、

 

見えているものだけで〝いよう〟、

 

聞こえるものだけを聞いて〝いよう〟、

 

感じるもの、そのものを感じて〝いよう〟

 

としてしまうが、そうではない。

 

見えているもの、聞こえているもの、

 

感じているもの以前の営みにとどまる。

 

 

 

 

一生かけて玉ねぎの皮むきをしなくても(笑)

 

本当の望みにフォーカスしなくても、

 

統合をしまくらなくても、瞑想をしまくらなくても、

 

自分などなしに、ケリがつききった、赦されきった、

 

そのまんまの今が、丸出しになっている。

 

 

そして、それらを明白にさせるには、

 

自分というものが一回〝落ち切る〟必要がある。

 

自己が落ち切って、再度智覚が戻ってきたとき、

 

全ての道理が明確になる。

 

それには、

 

コーヒーを飲んで、コーヒーだと思う以前の、味、

 

バラを見て、バラだと気づく以前からある、形、

 

誰かの声を聴いて、Aさんだ、とわかる前の、音、

 

空気を肌に感じて、寒い、と気づく以前の、感覚、

 

運子の匂いをかいで、臭い、と感じる前の、匂い、

 

を智覚することだ。

 

(智覚しよう、と実践することではない)

 

それは徹底的に何もしないことによって智覚する。

 

どうすれば、と言っている時点でズレている。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com