↑日本酒で酔っぱらう。
先日、外よりももっと自分に向かってゆくべきだ、
と書いたけれども、最近、外側でも内側でも、
結局、どちらでも同じなのではないだろうか、
という結論に至りはじめている。
と言うのも、
僕たちが、様々なスピ覚者や悟った人の言動を見て、
あの人はすごい、とか、あの人は違う、と思う場合、
結局は自分から見た自分バージョンの覚者、つまり、
自分バージョンのデイヴィッドやエッグハルトを見て
「そうか。分かった!」とか言っているだけで、
本当の彼らを見てそう思っているのではない。
なので、自分は、覚者やマスターたちを、
自分が見たいように見て学んでいるわけで、つまり、
自分で、自分を、外に投影して学んでいるのである。
こういう風に見てゆくと、自分は日々、
無数の多重人格者である自分を相手に、
時に闘い、時に愛し、時に分かち合いながら、
あれやこれやと、VR世界を生きていることになる。
ということは、その分裂した自分の投影物である
大勢の他者から差し出される赦しの元ネタは、
当然、自分から出たものであるのだから、
他者から言われたり、されたりしたことを赦せば
最後は自分が赦され消えてゆく。
要するに、平安になるのは当然だと言える。
それ故に、
〝あの人〟がこういう事をやっている、
わたしは〝あの人〟にこう言われた、と、
そこに別個の他者が存在するかの如く、
自分と切り離して実践する赦しと、
他者が自分の前で見せる全パフォーマンスに対して、
それは自分の中を見せられている、
として行なう赦しとでは、おのずと結果が違ってくる。
それでも、
精神的にとても苦しい環境にいる場合、
たとえ、コースを実践していて、
この状況は自分が投影している夢だ、
と理解していても、
それを自分の中からでているもの、
として直視するのはとてもキツイものがある。
例えば、
今、よく報道されている陰湿なイジメや虐待など、
ずっと暴言をはき続けられる環境下において、
そんな憎悪に満ちた嫌な人間を赦す、なんて芸当、
コースの原理を知っていたって難しい。
僕の場合、
それに近い状況に置かれた時にやっているのは、
いま、この瞬間の空間だけに集中する。
今この瞬間を、あるがままに観察する、ということだ。
今自分の身に感じている恐怖などの感情とは別に、、
空間の中で相手が見せている表情、声、動作のみに
フォーカスし、それをじっと観察する。
その後の展開については考えない。
ただ、放り出したまま、相手に委ね、空間を観る。
ちょっときついけれど、慣れれば案外できる。
やがて、相手は口をパクパク、腕をフリフリ、
しているだけのように見えてくる。
そして、自分はいま夢を見ているのであり、
騙されているのだ、と理解する。
そのうえで、誰かに助けを求めるなり、
相談するなりして、現実的な処置を講じればいい。
「僕はもう君と一緒に消えていってもいい。」
と、相手に投影されている自分のエゴが
真に癒された時、エゴは喜んで消えてゆくのだと思う。
そしてこれが、エックタルトが言う、
〝今この瞬間、とは、起きている出来事ではなく、
出来事が起きている空間だ。〟
という言葉の所以でもあるのだ。
まあ、それでも、僕の場合だと、
会社でのキャリアや、お給料や、香港での生活が、
突然、何かの事件で崩壊しそうになったとしたら、
いくら、夢を見ているんだ、と言ったって、
やはり、赦してどうの、空間を観察してどうの、
どころではないかもしれない。
しかし、どれだけの事件が起きたとしても、
「全て崩壊してもいいです。」と、
自分を手放し、聖霊に全てを委ねる自信はある。
結局、何が言いたかったかと言うと、
仕事がなくなり、全ての財産を失ったとしても、
不治の病で死んでしまったとしても、
友人や家族が一人もいなくなってしまったとしても、
自分は何一つ失われてなどいない、ということ。
だって、これ全部、
寝ているときに見るのと同じ、夢なんだから。