ここへきて、またハレ師匠の講義映像を見ている。
個人レッスンをガンガン受けていた時代の映像で、
興奮気味に質問しまくるキモイ自分の声に、
「ひ、ひぃーっ!」と身もだえしながら見ている。
それにしても、録音された自分の声って、
なんでこんなにキショくて、恥ずかしいのだろう。
これも、何かの罪悪感の象徴なのか、不思議だ。
↑午後から香港の会計事務所へお出かけ。
渡し船で香港島へ渡る。
肉体は存在感で、ハートは実在感、
意識は静寂で、ハートは悦そのもの、
そして、神を感じてキリストの中で理解が起こり、
その理解が聖霊となって、愛が延長される。
まだ奇跡のことを何も知らない頃に、
ハレ師匠から奇跡講座の理論を学べたのは、
本当に幸運だった、と自分でも思う。
今、奇跡講座を読んで理解できるのも、
加藤氏のDVDを見てストンと腑に落ちるのも、
ちゃんとハレ師匠が基礎理論を筋道立てて、
教えてくれたからだ。
そうでなかったら、コースを読んでもきっと、
ちんぷんかんぷんだっただろう。
そう言えば、
あの由緒正しい東京ステーションホテルのバーで、
ハレ師匠から個人レッスンを受けたこともあったっけ。
結婚式のときみたいなタキシードを着た店員さんが、
ふかふかの絨毯の上を行ったり来たりする中、
COLOMBIAと書かれたTシャツに、
いつものジーパン姿のハレ師匠が、
ちょっと緊張した面持ちでマティーニを飲む姿が、
今でも目に浮かぶ。
そう、そこで僕は、かの有名な、
AさんBさん高速一人芝居の講義を受けたのだった。
まあ、今思えば、あれが、
天国帰還プロジェクトの、はじまりはじまりぃー、
だったんだね。
↓過去に東京ステーションホテルのこと書いてた真我に目覚める - 香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー
で、ハレ師匠と言えばハートである。
当時、
「赦しが全てです。ハートは赦しではないのです。
まあ、ハートはオマケのようなものですね!」
と、ハートを強く否定していた教師もいたが(笑)、
僕自身、ずっと実践してきて実感するのは、
ハートがオマケなわけねーだろ、である。
だって、じゃあ、感動に打ち震えたり、
好きな人と愛し合った時に感じるアレは何なのか、
ただのオマケなのか、ということになる。
コーヒーカップに神を観るのも、
何気ない風景に涙があふれるのも、
そこにハートを感じているからなのだ。
個の自分が個でありたいがために、
本来〝悦〟であるハートをアレンジして、
「私の感じ方。私の性格。」としている。
赦しはその〝個の想い〟が作り出した歪みを、
聖霊に取り消してもらうためのツールなのだ。
「ただ、いくらハートに戻ればいい、と言っても、
肉体としての自分の存在感がリアルすぎて、
戻るための最大の障壁になっている。」
と、ハレ師匠は言っていた。
スマホを一個与えられただけでも、瞬時に、
その小さな画面の中へとどっぷり入り込み、
抜けられなくなってしまう僕たちなのに、
10の何億乗ビットの超リアルVR空間という、
壮大な〝でっち上げ空間〟を使って、
良い子の僕らを騙すことなど、エゴにとっては、
朝飯前のお茶の子さいさい、なのだろう。
自分や他人がここに本当に存在している感覚が、
半端なくリアルなために、いくら頭で分かっていても、
ここが幻想だと、どうしても思えないでいる。
いくら否定したって、熱いし、寒いし、美味しいし、
ムラムラ来るし、痛いし、見えるし、聞こえるし、
で、しっかり、リアルな知覚が肉体にはある。
そこをちゃんと感じて認識し、
偽物の感じ方からくる0と1の設定を、
兄貴へと明け渡してゆく。
そんな作業を続けていると、
少しずつではあるが、ハートのほうがリアルだ、と、
知覚が修正されてくるから面白い。
まあ、ハートを直に感じれば、この幻想世界など、
コッパ微塵に吹っ飛んでしまうのだろう。
そこで、じゃあ、
ハートの状態、幸せな夢の状態、平安な状態、って、
いったいどんな状態なのだろう、と考えたとき、
それは、隠蔽のない状態なのでは、と、ふと思った。
なぜなら、僕たちは、肉体の内部に、
様々な秘密を隠しながら生きている。
誰だって、ぜーったいに人には言えない秘密が、
ひとつやふたつ、いや、いくつもあるだろう。
僕にだってある。
家では鼻くそをせせって食べてます、とか、
いつもうんこを手で拭いています、とか…。(←ウソ)
よく、大勢の人に何かをカミングアウトしたり、
恥ずかしい過去の過ちを打ち明けたり、
誰にも言えない悩みを相談したりする人がいるが、
それって、隠蔽している罪悪感を浄化させ、
ハートへと戻ってゆく行為でもあると思うのだ。
また、犯罪を犯して服役しているような兄弟も、
聖霊からすれば、それは罰せられているのではなく、
自分が隠ぺいしている罪をちゃんと認識して、
それは無かったが故に消えたのだ、と、
真に自覚して癒してゆく神聖な場所となる。
とにかく、エゴにとって、
肉体は唯一にして最大の隠れ家なのだ。
まあ、だからと言って、
何でもかんでもぺらぺら告白する必要もなく、
自分の中のどんな隠蔽が誰に知られたとしても、
別に自分は隠したいものなんか何もない、
という境地が本当なのだと思う。
なので、もし兄弟から何かを打ち明けられたら、
また、僕が兄弟に自分の秘密を打ち明けたとしたら、
その時は、ちゃんと〝消えてゆく隠ぺいの姿〟
として、もとから無いものを〝無い〟と認識ながら、
兄弟の秘密(隠ぺい)も、自分の秘密(隠ぺい)も、
一緒に引き受け、一緒に解放されてゆきたい、
と願うのだ。