昨日、フィリピン工場で、財務の女の子から送られてきた
11月の財務諸表のファイルを開いた途端、
ムカムカムカッ、と、大きな怒りが込み上げてきた。
普通、最終確定した10月の財務諸表のファイルに、
11月のものを上書きするべきところを、彼女は、
最終確定前の古いファイルで11月分を作成していた。
これだと、10月までの正しい数字が反映されておらず、
過去のコメントも消え、為替レートも違ってくる。
実は、古いファイルを使うというミスは初めてではなく、
過去、何度も注意してきた経緯がある。
にもかかわらず、なんで、と、
思わず、針が振り切れてしまった僕は、
スーパーバイザー二人を会議室に呼び、
「もう、何度言ったら分かるんだ。
どのファイルが最新版か分らないのなら、
どうして、その都度、僕に訊かないんだ。
すぐに、最新のファイルでやり直してください。」
と、叱責までは行かないが、きつい口調で注意した。
「自分は今、他者を訂正しようとしている。
怒りはどんな事があっても正当化されないのに、
自分は自我の正しさを通して他者を裁いている。」
と思いながらも、言葉を発している自分を止められない。
彼女たちが去った後、ようやく冷静さを取り戻した僕は、
あることに気づいた。
これまで、自分の正しさを以って僕を訂正しようとする
元コンババ部長を赦しては来たが、なんのことはない、
僕も同じことをやっている。
本当は僕が彼であり、赦すべきは僕自身だったのだ。
他者を裁かない、兄弟を訂正しない、の真の実践は、
はなから、裁いたり訂正するべきものなど何もない、
というスタンスからのものであるべきなのに、
いつしか、一旦訂正すべき兄弟を実在化させてから、
それを赦そうとしていた自分に、ハッとなったのだった。
それは確かに真実だ、と、先に自分自身が見做した後で、
赦すことなどできないのは当然であり、
元来、他者の誤りを訂正し、他者を変えるのは、
自分の任務ではなく、聖霊兄貴の仕事のはずである。
自分にできることは、
他者の誤りを自分のこととして受け容れ、ただ見すごし、
聖霊に自分と兄弟の内側を癒してもらう事だけである。
そして、この実践が可能になるのは、
訂正すべき誤りなどなく、兄弟も自分も実在していない、
というスタンスで〝最初から〟いることである。
その夜、ホテルの〝神ベッド〟にもぐりこみ、
神の中で、罪がないことを感じていた。
また、聖霊に心の中を癒やしてもらっていた。
こうして、
〝あなたは他者を見るように自分自身を見ている〟
というコースの言葉を学ぶ一日は幕を閉じたのであった。