土曜日の今日は、
午後からずっと、コースを勉強して過ごした。
テキストを読み、ゲイリーの4冊目を読み、
いくつかの過去の講義映像を見ながら、
主要な内容をワードにまとめていった。
最後には、ハートと神を感じる瞑想をしてフィニッシュ。
こんな僕だが、ちゃんとお勉強もしているのだっ!
どうや、エライやろ!(⇚ 一体誰に言うてんねん!)
というわけで、
夜、演歌同盟の友達と、近くの火鍋屋で鍋をつついた。
途中、氷川きよしのビジュアルが美しく変貌した話や、
石川さゆりが今年も紅白で〝越えて〟くれるか、といった
そんな他愛もないことを、あれこれ話しているうち、
突然、ものすごく幸せな気持ちに包まれた。
神が在るのだな、と思った。
と、話は変わって、
すでに、コースを学び始めて5年半になるが、
ここへ来てようやく、赦しとは、文字通りに赦すことだ、
という、シンプルな境地に至った次第である。
過ちを認識する、とか、聖霊に明け渡す、とか
罪のなさを見る、とか、神を思い出す、というような、
様々な赦しのプロセスを経て、最後に行きついたのは、
書いて字の如し、ただ〝赦す〟、それだけだった。
敢えて〝赦す〟の前に何か文字を付け加えるなら、
無いものを赦す、となるだろうか。
赦すの意味を国語辞典で調べてみると、
咎め立てしないこと、差し支えないと認めること、
手放すこと、自由にさせること、責めないこと、であった。
しかし、〝赦す〟という文字の通りに赦す、という、
単純な赦しを理解するためには、上記に書いたような、
聖霊と共に見ていくことや、神だけが実存であることや、
ここが夢の世界で実在ではないことが、
しっかりと入っている必要がある。
ああ、これからは、何があってもただ赦してゆくだけだ。
そのことが〝真に〟分かってくると、心が安らかになり、
夢の現実に対する恐怖が消える。
あの、僕の天敵である月イチの部門長会議でさえ、
怖くはなくなった。(⇚ と思う。多分…。)
たとえ攻撃された、と思えるようなことが起こったとしても
それは夢で本当ではないのだから、赦せば消える。
赦せば赦すほど、聖霊が時空を取り消してくれるし、
赦せば赦すほど、神を感じられるようになるだろう。
そして、他者を赦して、赦されるのは、僕自身なのだ。
赦すことで、夢の現実を放棄するのだ。