昨日の部門長会議も無事に終え、今日は、
月末支払い分の小切手の振り出しに追われた。
日本で小切手支払いをする会社は少ないと思うが、
香港や欧米諸国では、まだまだ小切手が主流である。
ATMで小切手を口座に入れることもでき、
手数料も不要な上、郵送もできるので重宝である。
だが僕は小切手を発行するのが大の苦手なのだ。
社判を押し損ねて印字が欠けてしまったり、
発行日や自分のサインを間違え、
何度もやり直すこととなる。
その度に破棄する小切手を大量に出してしまうのだ。
本当は経理をする事務員さんを一人雇いたいのだが、
中国との取引が極端に少なくなった今の業務量では、
人員を増やすなどもってのほかで、
当分一人、孤軍奮闘するしかないと思っている。
👆 そろそろライチも食べ納め
聖霊に訊く、聖霊に委ねる、聖霊を信頼する、は、
コース兄弟の基本姿勢ともいうべきものだが、
神と一致し始めてからは、聖霊が自分、というか、
自分の考えることが聖霊の考え、になっている。
どういうことかというと、日常で何かが起こり、その結果、
自分がどんなことを思い、どんな反応をし、
どんな行動をとったとしても、すなわちそれ自体が、
聖霊の考えだ、ということだ。
例えば、
大切な面接がある朝、寝坊してしまったとする。
大慌てで顔を洗い、服を着ながらも、
適当な言い訳を考え、面接先に電話をする。
一方で、面接先へ向かう電車の中などで、
ちゃんと起きれなかった自分を責めたり、
やってしまった、という罪悪感に苛まれたりする。
しかし、この状態そのままがすでに聖霊の采配だった
ことをすぐに思い出し、あとは何もしない。
聖霊に罪悪感を明け渡したり、訂正を依頼したり、
何かを祈ったり、ということもしない。
要するに、一旦聖霊を信頼し、聖霊に任せたのなら、
どんなことが起こって、どんな思いが出てきても、
それは聖霊の〝想い〟であり、采配の結果だ、
ということだ。
第一、寝坊をして焦ることが、よい事かどうかなんて、
そんなの個の自分には解るはずなどない。
そして問題は、自分が解釈したものを、
聖霊に何とかしてもらおうとする意識の動きにある。
そう、僕が失敗小切手を何枚出そうと、
聖霊に、聖霊に委ねたら、聖霊を信頼したら、
そのあとに何が起きても、それは聖霊なのだ。