今日はちょっと、
コース兄弟には〝トンデモ〟な話を書くので、
軽く聞き流してもらえれば幸いである。
僕が全一そのものである時に感じたのが、
自我と聖霊兄貴は同じものなのではないか、
ということである。
どういうことかというと、
僕たち一般的なコース兄弟の感覚としては、
まず、自我と聖霊という二つの選択肢があり、
決断の主体(意識)がどちらを選ぶかによって、
世界側か、神側かのベクトルの向きが決まる
というのが基本路線だろう。
(※ 教師によって微妙な違いアリ!)
しかし、
見える世界より、見えない背後の方がメインとなり、
これまで自我だと思っていたものが昇華されるとき、
自我が〝ぐるん〟と反転して、
聖霊兄貴が僕のみぞおちりにガーンと姿を顕わす。
それは、僕が兄貴を選択したので自我が去り、
代わりに兄貴が顕われた、というより、
自我が兄貴へと〝変容〟を起こした感覚なのである。
つまり、自我と聖霊という、
別個にふたつのものがあるのではなく、
それらは同じひとつのもので、
僕たちの意識の方向性によって、
自我に見えたり、聖霊として感じられたりする。
僕たちは、
自我なしでは、この夢の世界を生きてゆけない。
たとえ〝幸せな夢〟の状態であっても、
自我は残っている。
でないと、
私はアーテンで、あなたはパーサです、
と認識できないし、語り合うこともできない。
ただ、こういう領域の自我というのは、
もう、僕たちに罪悪感を抱かせたり、
比較して分離させようとする存在ではなく、
ただ歓びだけを感じさせるツールとなる。
なので、
聖霊を選択することで神に向かうのではなく、
先に神の愛(ハートの悦)を感じることで、
自我から聖霊へと、自然に変容が起こる。
そして、神の一歩が訪れるとき、
意識と共に聖霊兄貴も喜んで消えてゆくのだ。
というわけで、香港では、明日からようやく、
ジムとマッサージ店が再開される。
早速、土曜日にトレーナーの予約を入れた。
筋肉痛をマッサージで癒すのだ!