香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

聖なる自我

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今日はちょっと、

 

コース兄弟には〝トンデモ〟な話を書くので、

 

軽く聞き流してもらえれば幸いである。

 

 

僕が全一そのものである時に感じたのが、

 

自我と聖霊兄貴は同じものなのではないか、

 

ということである。

 

 

どういうことかというと、

 

僕たち一般的なコース兄弟の感覚としては、

 

まず、自我と聖霊という二つの選択肢があり、

 

決断の主体(意識)がどちらを選ぶかによって、

 

世界側か、神側かのベクトルの向きが決まる

 

というのが基本路線だろう。

 

(※ 教師によって微妙な違いアリ!)

 

 

しかし、

 

見える世界より、見えない背後の方がメインとなり、

 

これまで自我だと思っていたものが昇華されるとき、

 

自我が〝ぐるん〟と反転して、

 

聖霊兄貴が僕のみぞおちりにガーンと姿を顕わす。

 

それは、僕が兄貴を選択したので自我が去り、

 

代わりに兄貴が顕われた、というより、

 

自我が兄貴へと〝変容〟を起こした感覚なのである。

 

つまり、自我と聖霊という、

 

別個にふたつのものがあるのではなく、

 

それらは同じひとつのもので、

 

僕たちの意識の方向性によって、

 

自我に見えたり、聖霊として感じられたりする。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

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僕たちは、

 

自我なしでは、この夢の世界を生きてゆけない。

 

たとえ〝幸せな夢〟の状態であっても、

 

自我は残っている。

 

でないと、

 

私はアーテンで、あなたはパーサです、

 

と認識できないし、語り合うこともできない。

 

 

 

ただ、こういう領域の自我というのは、

 

もう、僕たちに罪悪感を抱かせたり、

 

比較して分離させようとする存在ではなく、

 

ただ歓びだけを感じさせるツールとなる。

 

 

なので、

 

聖霊を選択することで神に向かうのではなく、

 

先に神の愛(ハートの悦)を感じることで、

 

自我から聖霊へと、自然に変容が起こる。

 

そして、神の一歩が訪れるとき、

 

意識と共に聖霊兄貴も喜んで消えてゆくのだ。

 

 

というわけで、香港では、明日からようやく、

 

ジムとマッサージ店が再開される。

 

早速、土曜日にトレーナーの予約を入れた。

 

筋肉痛をマッサージで癒すのだ!