非二元や悟り系スピの定義を大まかにまとめると、
〝自分なんていない、故に、他者も存在しない〟や、
〝この世界は寝ている時に見る夢と同じで幻想だ〟や、
〝見えているもの、聞こえているもの、それしかない〟
といったところだろうか。
「確かに、ここに世界があるように見えているよね、
でもそれはただのストーリーで幻想なんです」と、
〝ある〟と認めたうえで〝ない〟と否定している。
そうではなく、はなから、それらは本当になかった。
どういうことかというと、自分や他者という存在感、
見えていて、聞こえていて、肌に感じられている世界、
それそのものがすでに〝実在〟であり〝実相〟だ、
ということである。
「自分も他者もいないんです。
この家も、この椅子も、食べ物も、お金も、幻想で、
VRの中の映像に過ぎないんです」
といくら現実を否定してみても、山田さんを見れば、
「ああ、山田さんだあ!」という〝存在感〟が、
どこかに、でーんとあるような感じがしている。
椅子や、車や、木や、花を眺めてみて、
「この車かっこいいなあ!」「この花、きれいだなあ!」
と思う時、何かの〝存在の気配〟を感じている筈だ。
そして、今この瞬間瞬間に顕れてくる誰かや何か、
それそのものに〝リアルな神の存在感〟がある。
実相、神の国、天国、ソース…まあ、なんでもいいが、
それらはもう、今この瞬間、目に見えている世界に、
バーン、とむき出しになって〝在る〟のだ。
そこへ到達するために、何かをする必要もない。
まるで、目の焦点を変えることで、
平面の絵から別の絵や写真が3Dで浮かび上がる
〝ステレオグラム〟を見ているような感じ。
なので、現実を見て、
「これは本当ではないので大丈夫なんです」とか、
「このコーヒーに神を感じる」というような、
現実を無視したり、神と切り離して観ている限り、
絶対に夢からは抜け出せない。
今この瞬間に顕れるものの存在感を観ること、
見えているもの、聞こえているものに信を置いて、
ただ、世界に委ねていると、
神以外のものから作られたものなど
一つもなかったことがクリアになる。
そこから、むき出しのリアルが明白になる。