みなさんは最近、
いつ〝他人から褒められた〟だろうか。
デパートで、よくお似合いですよ、と言われた、とか、
そういうのではなく、自分が発揮した能力や、
やった仕事や、なにか役に立った行為に対して、
よくやったね、えらいね、すごいね、
と肯定してもらえた、みたいなことを言っている。
というのも、
先日『ザ・ノンフィクション』という番組に、
褒めますおじさん、という男性が登場していた。
彼は、路上を行きかう人から投げ銭をしてもらうと、
一分間、全力でその人を褒めちぎる。
服装や顔などの外見や醸し出している雰囲気、
または、会話の中で得たその人の情報などから、
褒めて、褒めて、褒めまくる。
褒めることがなければ、最後はもう、
生きていること自体が偉い、と褒めそやすのだ。
また、番組では、投げ銭をして褒めてもらった
人たちの生活も取材していて、
リアルで他者と繋がる恐怖から、ワンルームの一室で
深い孤独感の中、SNSに埋没するコスプレ少女や、
大きな会社に勤め、頑張ってはいるけれど、
さして関心を持たれず、成果も評価されずに、
寂しさを抱えているる若い男性、など、そこには、
何をしても放っておいてもらえる自由がある代わりに、
誰からも関心を持たれず、放っておかれる、といった、
大都会(東京)特有の孤独感があった。
いまは、褒めるのも、褒められるのも差別になる、と、
コンプライアンスなんちゃらでダメだったりするし、
学校で100点をとっても、みんなの前で褒められると、
いじめられるから褒めないでほしい、と言ったりする。
それでもやっぱり、ちゃんと認められたい。
それで、
目立ちたくはないけれど、褒めてはもらいたい、
という矛盾した思考の中を漂うことになる。
僕が働き始めた昭和の時代は、SNSなどもなく、
褒められる時も、けなされる時も、直接言われる。
会社でも、失敗したら怒鳴られたが、ちゃんとやれたら
「おお、すごいやんけ!」と、目を見て褒めてもらえた。
なので、僕の場合、いっぱい叱られもしたけれど、
おおむね、褒められてここまでやって来た感がある。
幸い中国語が話せたので、バブルがはじけた後も、
運よく、中国進出ブームの波に乗ることができ、
中国で工場を作ったり、上海で株式運用をすると、
すごーい、と認められ、比較的容易に昇進もできた。
そして、アラカンになった今の僕は、褒められるより、
年下の人たちを褒めることの方が多くなりつつある。
また、年を重ね、素直に人を褒めることができるのも、
若い時に、たくさん褒めてもらえたからだと思うのだ。
例えば、教え子には、授業の初めに出席を取る際、
一人一人の髪型、表情、服装、言動など、
何かしら見つけて褒めるようにしている。
そうなのだ。
人は誰かから〝肯定される〟ことで、
人や自分を肯定することができる。