自分は今、自分が創造した夢の中にいるのだ、と
真の認識と体感が生まれているボクである。
「この人、何か苦手だ、嫌だ、ムカつく、怖い」
と思っている他者が、実は、外へと追いやった、
自分自身の姿だったと心の底から気づけた時、
愛を叫びながら他人の振りをして出てきた自分を
再度、愛として迎え入れることができると知った。
僕の場合、身近な人の中ではもう、
苦手とか怖いというような人はいなくなったのだが
テレビのコメンテーターや事件を起こした人、
または、レストランの店員さんなどの中に、
他人の振りをして出てきた自分を発見したりする。
それを見とめ、聞きとめ、味わい、受け入れて、
愛として背後の兄貴へと返してゆく。
そうやって、あらゆる他者を赦し続けてゆくと、
自分の中で愛へと変わった彼らが、大手を振って
再度、この夢の現実に会いに来てくれる。
そして、彼らが愛として現われているのを見て、
ああ全ては神だった、神だけだった、と気づける。
だから、日常の現実や肉体としての自分は、
幻想であり、真実ではなく、よって重要ではない、
と、ないがしろにされるようなものでは決してなく、
自分が〝無意識下〟で何を信じているかを知り、
それを愛に解釈し直す大切な〝場〟なのだ。
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また、この幻想の現実は、自分が、自我か神か
どちらを選択しているかを目撃する場所でもある。
奇跡講座の勉強会などでよく、
自我か神か、もう一度選択しなおしなさい、
と言われたりするが、これを僕の言葉で言うと、
自我か神か、もう一度〝感じ〟直しなさいとなる。
いくら、私は神を選択します、と宣言したところで、
神の愛を感じていなければ、何の意味もないし、
僕にしてみれば、自我もまた愛を求めて出てきた
神の子の一つの側面でしかないので、
自我とちゃんと向き合い、感じてやると、
それは愛であり、かみだった、と絶対解かる。
そういう意味で、自我はないのだ、と言える。
選択するという行為は、頭でやっているが、
感じるという行為はハートで行なっている。
じゃあ、
神の愛を感じるとはどういうことなのかと言うと、
今感じている、怒り、嫉妬、歓び、感謝、不安、を
ただ、正直な気持ちでちゃんと感じること、
それらを全肯定して、受け入れてやることである。
その上で、自分が忌み嫌って恐れていたものが、
聖霊兄貴や神と同じものだった、と理解し直せる。
よくスピのマスターなんかが、
眠りと目醒め、自我と神、
どちらを選ぶかは〝あなた次第です〟
などと言ったりするが、
〝あなた次第〟という言葉が好きではない。
「私は目醒めを選びますがあなたはどうしますか
それはすべて〝あなた次第です〟」
なんて、いくらそうだとはいえ、愛がなさすぎる。
それよりも〝自ら力強く決断してください〟
の方がしっくりくる。
どんな苦しい環境に居ようとも、
自分はここでやってゆく、と
自ら力強く決断していれば、
もうそれは神を感じているのである。
現実は幻想で世界は無い、の真の意味は、
それらは全部神の愛だった、の中に在る。