香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

本当に無かった

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⇑ ついに宗教画っぽいポスターまで出た。(笑)

 

 

〝宇宙の消滅〟とはよく言ったもので、

 

「ほんと――に、無かったん、だぁぁーーっ!」と、

 

叫びだしたくなるような、心からの理解の中で、

 

日々、夢の世界を過ごしているボクである。

 

 

 「これは起こっていないんだ、ただの夢なんだ。」

 

と、ひとつひとつの夢の出来事を指して〝無い〟

 

のではなく、全体まるごと無い、と言っている。

 

別の言い方をすれば、自分は神から遠く離れている、

 

という、たったひとつの解釈自体が本当に無かった、

 

ということである。

 

 

じゃあ、本当に無かった、と理解しているのは誰なのか?

 

自己も、他者も、世界も無いのに、それでもまだ体の奥に

 

〝何かが存在している感じ〟があるのは何なのか。

 

神である。

 

その存在感が神だと認識したうえで、

 

自分から一度たりとも離れたことのなかった神に気づく。

 

それが、神を復帰させる、ということである。

 

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⇑ お買い物新体験!

    

エアコンの風を感じて、

 

寒い、暑い、と言っているのは自我だが、

 

風自体、風そのものを体験しているのは神の子である。

 

ただ感じている存在、ただ歓んでいる存在、

 

ただ愛している存在、その〝感じ〟が神の理解である。

 

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⇑ 香港の一大イベントであるミス香港コンテスト。

   毎回〝ビミョー〟な人(笑)が優勝するのはなぜ? 

 

というわけで、いま、フィリピン北部のクラークにいる。

 

日本の関東地方では、台風15号の影響で、

 

交通機関が大変なことになっていたようだが、

 

ここフィリピンでも、

 

バケツをひっくり返したような非常に激しい雨が降り、

 

身の安全のため、工場も5時で一斉退勤となった。

 

 

香港でも、抗議活動の過激化で、

 

地下鉄の自動改札が破壊され、駅構内へ入るのに、

 

長蛇の列ができる始末で、混乱は続いている。

 

それに伴い、様々な抗議活動のポスターが面白い。

 

ショッピングモールで、警官隊がデモ隊を殴打した

 

事件をポスターにしたものは、ウィットが効いていて

 

面白い。

 

 

と、これはご都合スピリチュアルでも何でもなく、

 

香港の混乱も、台風15号の影響も、

 

また、ミス香港のビミョーなクオリティも、

 

しっかり認識されていながら、それでもやはり、

 

誰も何もしておらず、本当に無かった、

 

という理解は起きている。

 

 

とまあそんな、 

 

何ともわけの分らない今日この頃である。

 

 

ブレーカーを落とせ!

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今年から香港のIDカードが一新されるため、

 

今日は、新しい香港IDを受け取りに、

 

チンチン電車に乗って、ワンチャイまで行ってきた。

 

チンチン電車に乗るのは本当に久しぶりだ。

 

レトロ感漂うワンチャイの街並みも懐かしい。

 

夏も過ぎ、これから過ごし易い季節になるし、

 

休みの日は、家にばかり閉じこもっていないで、

 

もっと香港の街を散策してみよう、と、

 

思いを新たにした次第である。

 

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話は変わって、

 

聖霊の声を聞くとか、聖霊の声に耳を澄ます、と言うと、

 

聖霊から何かのメッセージを聞くような印象を受けるが、

 

僕の体験から言うと、

 

聞くのは言葉ではなく、神や聖霊の〝感じ〟である。

 

 

僕がここのところ、

 

神だぁー、ハートだぁー、と、わーわー言っているのは、

 

神がいる感じ、愛の想念の律動、感謝で切ない気持ち、

 

神の認識そのものとして世界の中に存在することであり、

 

指示や直感を聞いて行動する、という意味ではない。

 

なので、この天国の〝悦〟(エクスタシー)の感覚は、

 

〝完全なる抽象〟であり、言葉では表現できない。

 

ただ、理解して、その理解の中で歓んでいるだけである。

 

 

ちょっとベタな言い方をすると、

 

夕焼けの美しさ、誰かの小さな親切、美味しい食べ物、

 

大好きな人に対する愛おしさ、の背後に流れている、

 

言葉では表現できない不変の愛と歓びの感覚こそが、

 

ハートの〝悦〟の感覚であり、神の理解だと言える。

 

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また、別の言い方をすると、

 

ある出来事を前に、誰かを批判したくなった時、

 

はっ、と自我の思考習慣に気づいて立ち止まり、

 

バーンッ、と思考のブレーカーを落として、

 

批判したり、咎めたりしている想いを遮断した際、

 

実際には、バーンッ、と自己の解釈を取り下げた時点で、

 

すでに僕たちは、聖霊の声を聞いており、

 

聖霊と同じように考えていることになる。

 

なんのことはない。

 

自我のおしゃべりに気づいて、それを取り下げた時点で、

 

すでに自分は聖霊を選んでいたのだ。

 

 

⇓ 二年前にはすでに神に気づいていた? ⇓

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まあ、僕も長い間、「兄貴!兄貴!」と、まるで、

 

聖霊という人格が別に存在するかのように扱ってきたが

 

結局、聖霊は神の想いであり、愛であり、認識だった。

 

また、それは、神の子である僕自身の想いでもある。

 

なので、誰かに愛を感じたり、感謝していることが、

 

すでに聖霊を選び、聖霊の声を聞いていることになる。

 

 

自我を捉らえ、これは間違っていると認識した時点で、

 

すでに聖霊と一体になっていることに〝気づく〟こと、

 

それが、聖霊の声を聞く第一歩なのだ。

神との交歓

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先日、香港トップの月蛾(げつが)が、

 

防犯条例改正案の完全撤回を表明したにもかかわらず、

 

香港の抗議活動は激しさを増すばかりである。

 

警察が市民に対して行なった暴力行為の調査や謝罪、

 

また、月蛾(げつが)自身の辞任表明がなかったためだ。

 

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⇑ 学校でのウソの愛国教育に反発して、

   高校生たちが授業をボイコット。

 

今日も、

 

仕事帰りに乗った電車がなかなか発車しないので、

 

どうしたのかと思っていたら、プリンスエドワード駅が、

 

抗議活動に集まった人たちに占拠されている、

 

という車内放送が入った。

 

日曜には、セントラルにあるアメリカ大使館付近で、

 

最大規模な抗議集会も計画されており、それが原因で、

 

トレーナーとのセッションも中止になってしまった。

 

 

また、メディアでは決して報道されないけれど、

 

謎の自殺(?)者や、警官の殴打による死者が、

 

多数出ている状況で、香港市民たちの怒りと不安は、

 

条例案撤回くらいでは収まらなくなっているのが現状だ。

 

 

そう言えば、演歌同盟の警察官の友人の話によると、

 

現在、警察官をはじめとする香港の公務員が、順番に、

 

国境を越えた深圳へ、2週間の研修に送られ、

 

そこで24時間、共産党や中国への愛国心を刷り込む、

 

ある種の洗脳教育を受けさせられているのだという。

 

今後〝親中派〟でなければ公務員にはなれない、

 

ということらしい。

 

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⇑ アパートの窓からの風景。

   午後11時を過ぎてもまだサッカーしてる。

 

とまあ、こんなふうに、誰かを咎めたり、

 

何かを批判している自分に、ハッと気づいた瞬間、

 

バンッ、と心のブレーカーを落として思考を強制終了させ

 

そこから、サッ、と、みぞおちのハートへ入ってゆき、、

 

シュッ、とハチミツを舐めた時の神の理解を思い出す。

 

するとまるで、オセロが次々にひっくり返るように、

 

自我の解釈が、聖霊兄貴の解釈へと置き換わってゆく。

 

そして最後は、

 

神の想念(愛と感謝と平安が入り混じった歓びの感じ)が

 

自分の身体からどんどん溢れ出し、そのあとはもう、

 

何を見ても、聞いても、味わっても、全てが神となる。

 

 

そうやって、

 

神を思い出した状態のまま夢の現実に存在していると、

 

今、香港で起こっている事をきちんと理解していながらも

 

そこに、どっちが悪い、とか、どっちが許せない、という、

 

批判や咎めの〝解釈〟が生じなくなってくる。

 

どんな状況を目の当たりにしても、

 

それは本当に無い、と解かっていながら、

 

起こっているように見えている状況に対処している。

 

 

そんな感じで、何を見たり、聞いたり、思ったとしても、

 

最後は結局、神に行きついてしまうボクなのであった。

 

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